宋常星『太上道徳経講義」(6ー1)

 宋常星『太上道徳経講義」(6ー1)

空であって物が無く、虚であって神が有る、無象であるが実象でもあり、神ではなく、神が存在しているのでもない。それが「谷神」と謂われていると教えられた。ただ「谷神」は虚霊ではあるがその存在は明らかであるので「谷神は死せず」とされている。これが玄牝においては陰陽が寂滅している、つまりは「天地の根」となる。それは門でもあって、ここに「出入の妙理」も存している。これが「玄牝の門」とされる。この門の妙は、それを悟ったならばあらゆる法がすべてここから出ていることが分かるのであり、これに迷ってしまうとあらゆるものが分からなくなってしまう。修道の人が、よく虚静の境地に安んじることができれば、まさに「始め無き始め」と出会うことになろう。また神ならざるの神の存在に出会って「天地の根」は(ただ働きとしてあるだけで、何か)天地の根といったものが存在しているのではないことを知ることができるではなかろうか。これは昔の聖人であっても、

その働きを体験して、それを悟る以外にはなかった。天の彼方の神仙であっても、それを得るには、働きを知る他になかった。天下の道を学ぼうとする者の悟るところは、それをそれとして悟る以外にはない。こうして修行をするにしても、(テクニックを用いる)有為の修行でも、(ただ坐るだけの)無為の修行であっても、すべては働きを知るところから入ることになる。こうして修行をすれば、聖人であっても、凡人であっても変わりなく、有為でも、無為でも、「無名の道」に入ることができるのである。つまり聖人でも、凡人でも等しく、「玄牝の門」に入ることができるわけである。そうであるから老子は「谷神は死せず」という奥義を述べておられる。「玄牝の門」とされているのは、聖人でも、凡人でもそれを悟ることができるし、道と徳とを実践するそのすべての真伝がここにある。

この章では老子は「天地の根」のあることを指摘され、これがつまりは「虚中の妙」であるとされる。道を学ぶ者は「虚中」つまり「天地の根」に自分が立っていることを知らなければならない。


〈奥義伝開〉「谷神」でも「天地の根」「玄牝の門」でも、これらはすべれ「働き」をいうもので、谷神という神が居るわけでも、天地の根という根があるわけでみ、玄牝の門という門がわるわけでもない。これらは等しく生成の根源をいうもので、生命力の働きそのものである。それを養うのが静坐の始めであり、奥義でもある。


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