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宋常星『太上道徳経講義」(2−2)

  宋常星『太上道徳経講義」(2−2) 難易、相い成り、 「難」とは、心に出来ないと思うことであり、人の力をしてはどうすることもできないことである。あるいは天の時、人の事が乱れると、協調を欠くいて、何らの達成もなすことができなくなる。こうしたことを「難」としている。「易」とは、特にそうしようとすることなく、環境も関係なく、自然にしてそうなるもののことである。無為にして為されるので、これをして「易」と謂っている。「難」しさを知らなければ、その「難」しさを畏れることもない。いろいろと考えをめぐらせて、多くのことを計画する。しかし物が物たるのは、その自然によっている。つまり、いろいろと考えあぐねる「難」は自ずから変じて、自然のままに達成される「易」となることもあるのである。しかし、こうした「易」も、そのまま「易」であり続けることはできない。思うがままにこだわりがなく、勢いに任せて、流れのままにある。こうしたことではどうしようもなくなって、「易」はまた変じて「難」となるのである。「難」が「易」となり、「易」が「難」となる。それは「難」と「易」とが共に生まれているからなのであるが、これは全て人の心によるものである。人の見方や考え方によるものである。人はうまく行かなくなるとどうしても有欲、有為に執着することになる。もしよく道の妙を知ることができたなら、徳に順じて、そのあるべきを知ることになる。たとえ至「難」のことであっても、それを「易」しいこととしてなされないことはない。そうであるから「難易、相い成り」とあるのである。 長短、相い形して、 この世には長いものがあれば必ず短いものもある。短いものがあれば必ず長いものがある。それは例えば人の身長のようなものである。もし自分が他人より背が高かったならば、他の人より高いということになる。そうなると我は「長」であり、他人は「短」となる。しかし自分は背が高いと思っていても、自分よりも背の高い人も居る。そうなればその人は「長」であり、自分は「短」となる。それぞれを比べれば、長短を見分けることができるが、それはあくまで相対的な評価にすぎない。修道の人は、はたしてよく長短の理を明らかにすることができるであろうか。自分と他人の区別を思うことなく、あまりに分析的な思考に陥ることがなければ、そこにどうして長短があろうか、長短が存していようか。そ...

宋常星『太上道徳経講義」(2−1)

  宋常星『太上道徳経講義」(2−1) おおいなることに大道の妙は、無ではなく有でもなく、物質でもなく空でもないのである。そこでは物質として現れているものの本質と同様なものが、人においてもそのまま有されている。つまり天地が未だ始まらないときのおおいなるシンボル(大象)がそれであり、乾坤がいまだ立っていないまえのおおいなる根源(祖根)がそれなのである。思考をもってそれ を捉えることはできず、言語をしてそれを表すことはできない。道を学ぼうとする人は、はたてよく分別を離れることができるであろうか。形式を捨てて身を道徳と一体化させることができるであろうか。無為をして物質に対して好悪の感情を起こすことがなく、有無の考えを持つこともなく、難易をはかることもなく、長短を認めることも、高下に心をよせることも、音声の適切な配列を考えることもない。または国を治め、あるいは家を脩(ととの)え、あるいは身を修するにしても、これらに集中しようとすることもなく、あえて集中しないとしようとすることもない。こうしたことはあらゆるところに共通する実理である。それは空言ではない。あらゆる幻想はここには真とは認められることはない。天地にあっては、道徳はそのままを見ることはできないが、道徳の功力は、人にあっては身を終わるまで去ることはないのである。この章で老子は、妄想を断って真を知らしめようと天下の人に教えている。本質を見て人知の及ばない境地に入るのである。 天下、皆、美(よ)しの美しと為すを知るは、これ悪(あ)しきのみ。皆、善の善と為すを知るは、これ不善のみ。 ただこの「皆、知る」ということの中は、正しくない(不善)ということが含まれている。つまり一般的な認識の中にそうした正しくないものが存しているわけなのである。大道の妙は、美(よ)いことは、それを得ることが貴ばれるが、善はそれを隠していることにおいて貴ばれる。つまり、大道の妙を天地の変化と造化に例えるならば、変容の神機ということになる。それは循環して絶えることなく、始まりも終わりもない。人はそれを知ることはできないが、しかし皆、これが美(よ)いものであり、善なるものであることを知っている。美きものは形として現れているのであり、人が得ようとするならば、適切にそれが得られるように天地に配されている。しかし、具体的に美きものとは、どういったものが美...

道徳武芸研究 合気道と点穴と〜ユーチューブ時代の危機と可能性〜(6)

  道徳武芸研究 合気道と点穴と〜ユーチューブ時代の危機と可能性〜(6) こうした「脈」を使うことは、何も不可思議なものではなく、柔道でも、レスリングでも、固め技で相手を抑えた時に、同じように抑えていても、どうしても抜けることのできない抑え方のできる人と、どこかに緩さがあってすぐに抜けられてしまう抑え方しかできない人がいる。うまく抑えることができる人は「脈を按(おさ)えている」ということができるのである。呼吸力(合気上げ)は両手を通して相手の「霊体」から「肉体」をコントロールできる力のルート(脈)を知るための練習法とすることができるわけであるが、これはまた脈の一点を制することで相手をコントロースすることも可能となる。これが点穴である。塩田剛三は昔から足の親指で相手の足の甲を押して激痛を与える演武をよく披露していた。また晩年は指で軽く突いて相手を飛ばす妙技も見せている。これらは術に述べたことで明らかなように点穴であり、また按脈の極地なのであって、こうした力が呼吸法によって開かれる。合気道が真にめざすべきは「肉体」のレベルの関節技ではなく、より微細な身体である「霊体」を開くことに他ならない。

道徳武芸研究 合気道と点穴と〜ユーチューブ時代の危機と可能性〜(5)

  道徳武芸研究 合気道と点穴と〜ユーチューブ時代の危機と可能性〜(5) 合気道の「気形」として扱われる神体は「肉体」ではない。霊的な力のルートである「脈」によって構成されている「霊体」を把握することが気形の稽古といえるが、これは太極拳の推手も同様である。その意味では推手のように手を触れるだけではあまりに微妙すぎて初心者はなかなか「脈」の存在を捉えることはできないであろう。やはり呼吸法のように両手を取った方が条件が限定される分、集中して「脈」の把握に務めることが可能となる。かつて大東流の堀川幸道は日曜には、最高クラスの師範には自宅に呼んで合気上げ(呼吸法)をやらせ、二三度試みさせると「だめだな」と言って稽古は終わったという。これは「脈」が取れているかどうかを見たものと思われる。それは堀川の大東流が他の系統よりもより「脈」を意識したシステムとなっていることでも分かる。ただ「脈」の稽古はそれが「肉体」へと繋がらなければ意味がない。「脈」をベースとする「霊体」の稽古の危険性はここにあるのであり、やはり特定の師範だけで許される秘教的な稽古とすることができるのかもしれない。

道徳武芸研究 合気道と点穴と〜ユーチューブ時代の危機と可能性〜(4)

  道徳武芸研究 合気道と点穴と〜ユーチューブ時代の危機と可能性〜(4) 早くから植芝盛平は合気道の母体となった大東流の関節技の実戦における限界を感じており「合気道は(実戦では)当身が七分」としていた。また晩年は合気道の「技」は攻防に使うためのものではなく「気形」であると教えていた。実は大東流も合気道もそのシステムとしては「気形」として理解されることが妥当なのであり、そのことは合気道が両手を取っての呼吸法(合気上げ)から始まることに象徴的に示されている。そもそも実戦では両手を取られることは全く想定されるものではない。しかし、このような想定外のシチュエーションを合気道では基本中の基本として規定しているわけで、このことは合気道が本来「気形」であったことを表しているとすることができるのである。それでは気形とはどういったものなのであろうか。これは人体におけるエネルギーのルートを感得するためのものということができる。つまり太極拳でいうところの「按脈」である。按脈とは体にあるエネルギーのルートを按(おさ)えもので、それを制することで相手の心身をコントロールできるようになる。

宋常星『太上道徳経講義」(1−4)

  宋常星『太上道徳経講義」(1−4) この両(ふた)つは、同じく出て名を異にす。同じくこれを玄と謂う。 「この両つ」とは「常の有」と「常の無」のことである。有無の名は違っていても、実際は共に無極から生まれ出ている。そうであるから「同じく」とある。「名」において違いが生じているのは、「無名」であるからではなく、またけっして「有名」であるからでもない。それ以前の万物の生まれる兆しによっている。「有名」は「無」をして言うことはできない。そこにおいて「名」は万物の状態を表している。「玄」は捉えることができない。始めも終わりも無く、形も無い。言葉で表現することもできない、至静、至明、至円、至浩、至顕、至露、至真、至常で、混沌としていること限りがない。妙用は自在であり、そうであるのでこれを「玄」と謂う。ために「これを玄」とあるわけである。ここで「この両つは、同じく出て名を異にす」とあるのは、これは 無名も有名も等しく「玄」である からであることを知らなければならない。 〈奥義伝開〉「常の有」「常の無」は一般的には「常に欲有れば」「常に欲無ければ」と読ませる。しかし、これであると欲の無い状態で知ることのできる「妙」は肯定的なもので、欲の有る状態で知ることのできる「キョウ(こみち)」は否定的なものと予想される。しかし、ここでは「有」も「無」も共に否定的、肯定的な価値によるものではないとして、「常」は本来の欲が無ければ先天の「妙」を、本来的な欲が有れば後天の「キョウ」を知ることができるとする。 玄のまた玄たるは、衆妙の門たり。 何らの兆しもなく、始めも終わりもない。これを「玄」と謂うことができる。その大きいことは限りなく、微細であることも限りがない。真の真であり、確かであること限りなく、また玄の玄たるものでもない。無にあって「玄」を観れば「玄の妙」を知ることができる。有にあってこれを観れば「玄の真」を知ることができる。有から観れば、有も無も同じところから発していることが分かるのであり、こうして玄の変化の無窮であることを更に深く認識することができる。太虚には太虚の妙がある。天地には天地の妙がある。万物には万物の妙がある。一切の形あるもの、形のないもの、存在しているもの、存在していないもの、これらはすべてこの「玄」の門から出入りをしている。これを「玄のまた玄」「衆妙の門」と謂っ...

宋常星『太上道徳経講義」(1−3)

 宋 常星『太上道徳経講義」(1−3) 有名は万物の母。 大道が無名であることは既に述べたが、それでは「有名」とはどういったことなのであろうか。そこには「道」があり、そこには「理」がある。「理」は天地万物に存している。それは「無から有が生まれる」ということである。「一をして万に化す」ということである。これらは全て無極から発している。この「無極」という「名」こそが「有名は万物の母」とされている「有名」なのであり、全ては(無極から生まれている)自然の妙とすることができるであろう。そうであるから天地は「道」より生じているのであり、万物は「道」から生まれているのである。つまり「道」は天地万物の母なのである。これはよく理解納得されるべきである。修道の人で、もしこの 「有名の母」への悟り(無極への悟り)を得たならば、万物がそれぞれ「一性」を有していることが分かろう 。万物は全て「一性」において同じなのであり、それぞれが「名」を持っていたとしても、本源にあっては「無名」であることになる。(「一」とは根源ということ、「性」は本質ということで、あらゆるものは善なる性を有している。この「善」を悟ることが「有名の母」を知ることなる) 〈奥義伝開〉「一」も「性」も同じ根源を象徴している。道家では「一」、儒家では「性」となろうか。儒家では「性」は本来的には「善」であると教えている。 故に常の無、もってその妙を観(み)んと欲す。 「常の無」は音もなく、香りもない、古くから今に至るまで、その存在の形態を変えることがないので、これを「常の無」という。つまり老子は人々が、「常の無」の中にあることを知るべきであると考えていたのであり、そこにあって至道の生まれ変化をすることの妙を観てもらいたいと思っていたのである。真常の妙はつまりは「無の中に有を生ずる」ところにある。この「有」は尽きることがないので「妙」とされる。 人ははたして「常の無」を観ることができるのであろうか。心にその妙を得ることができれば、つまり「常の無」を知ることができるであろう 。それは「無名」であり「天地の始り」でもある。ここで(永遠なる「無」への悟りをいう)「常の無、もってその妙を観んと欲す」とあるのはつまりはこういうことなのである。 〈奥義伝開〉「常の無」とは「無極」「先天」のことである。この「虚」からあらゆるものが生じてい...