宋常星『太上道徳経講義」(2−1)

 宋常星『太上道徳経講義」(2−1)

おおいなることに大道の妙は、無ではなく有でもなく、物質でもなく空でもないのである。そこでは物質として現れているものの本質と同様なものが、人においてもそのまま有されている。つまり天地が未だ始まらないときのおおいなるシンボル(大象)がそれであり、乾坤がいまだ立っていないまえのおおいなる根源(祖根)がそれなのである。思考をもってそれ

を捉えることはできず、言語をしてそれを表すことはできない。道を学ぼうとする人は、はたてよく分別を離れることができるであろうか。形式を捨てて身を道徳と一体化させることができるであろうか。無為をして物質に対して好悪の感情を起こすことがなく、有無の考えを持つこともなく、難易をはかることもなく、長短を認めることも、高下に心をよせることも、音声の適切な配列を考えることもない。または国を治め、あるいは家を脩(ととの)え、あるいは身を修するにしても、これらに集中しようとすることもなく、あえて集中しないとしようとすることもない。こうしたことはあらゆるところに共通する実理である。それは空言ではない。あらゆる幻想はここには真とは認められることはない。天地にあっては、道徳はそのままを見ることはできないが、道徳の功力は、人にあっては身を終わるまで去ることはないのである。この章で老子は、妄想を断って真を知らしめようと天下の人に教えている。本質を見て人知の及ばない境地に入るのである。


天下、皆、美(よ)しの美しと為すを知るは、これ悪(あ)しきのみ。皆、善の善と為すを知るは、これ不善のみ。

ただこの「皆、知る」ということの中は、正しくない(不善)ということが含まれている。つまり一般的な認識の中にそうした正しくないものが存しているわけなのである。大道の妙は、美(よ)いことは、それを得ることが貴ばれるが、善はそれを隠していることにおいて貴ばれる。つまり、大道の妙を天地の変化と造化に例えるならば、変容の神機ということになる。それは循環して絶えることなく、始まりも終わりもない。人はそれを知ることはできないが、しかし皆、これが美(よ)いものであり、善なるものであることを知っている。美きものは形として現れているのであり、人が得ようとするならば、適切にそれが得られるように天地に配されている。しかし、具体的に美きものとは、どういったものが美きものであるかを知ることはできない。善がどういったものが善であるかを知ることはないのと同じである。それはただ自然に存しているのであって、ただ無為なる存在なのである。そうしたところで人々は美きもの美きものたるが存しているのを知るのであるが、それは外的なものとして現れているからに他ならないのであって、そうして表れた特定なものがそうであると限られるわけではない。外的なものの表れによって人は、それに隠れている善の善たるものを知ることができる。ただ善とされるものを知ろうとすると、本当の善が何であるかを知ることはない。どうしてこれを悪(あ)しきと謂わないことがあろうか。どうして不善と謂わないことがあるであろうか。また見えない善なるものの存在を実感することで天下の人は皆、美きものの美きものたるものが何であるかを知ることができるのである。そうではなく教条的な「美」を固定的に考えるなら「これ悪しきのみ」となるのである。皆が善の善たるを固定的なものとして考えると、また「これ不善のみ」ということになる。


〈奥義伝開〉この世には幸福をもたらしてくれるものである「美(よきもの)」がある。それがどうして幸福をもたらしてくれるのかというと、その奥には「善(よきもの)」が存しているからに他ならない。例えば刃物は生活に便利であり「美」であるが、それはその奥に「善」が潜んでいるからに他ならない。もし、その奥に「善」の無い刃物であればそれは凶器となる。



故に有無相い生まれ、

「故」という字は「すべてがこれによる」ということである。これまでの文章を受けてそう言っている。「故」と謂って、「有」という字がこれを受けている。例えば天地が有り、人物や物が有り、名が有るが、これらはすべて「有」と謂われる。「無」の一字は、例えばこれを見ても見えないようなもののことである。これを聴こうとしても聞くことができないようなもののことである。微細、微妙で、こうしたものは感覚で捉えらるより他なく、これを名状することはできない。そうしたものを「無」と謂う。「相生まれ」るとは、生生止むことがないということである。変化が極まりないということである。この時、老子は人が「有」を見て「有」に執着するのではないかと恐れたのである。また「無」を知って「無」に執着してしまうのではないかと恐れたのである。そうであるから「有無、相生まれ」と、有と無が共に存することの意味を明らかにしている。人は皆、「有」が有為であることを知っているし、「無」が無為であることも知っているが、「有」であり有でない(不有)もののあるであることを知ることはない。つまり、有でない(不有)ものは「有」の立場から「無」のあることを示しているのである。「無」であり無ではない(不無)ことほ、これはをして「無」から「有」のあることを示している。つまり「有無」は全くの反対概念ではないということであり、陰陽も互いが反対のものとして存在して循環していのではないのである。そうでなければそれぞれが関係して生生する道は立つことがないことになる。ここに有無相い生まれるの妙がある。それが隠れ現れることははかり難く、変化は窮まることがない。ここの「有無相い生まれ」にはこうした意味がある。


〈奥義伝開〉一般に「陰陽互蔵」と称される考え方である。「有」の中には「無」が含まれ、「無」の中には「有」が含まれる。そうであるから有無、陰陽は循環して絶えることがないとされる。


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