宋常星『太上道徳経講義」(1−4)

 宋常星『太上道徳経講義」(1−4)

この両(ふた)つは、同じく出て名を異にす。同じくこれを玄と謂う。

「この両つ」とは「常の有」と「常の無」のことである。有無の名は違っていても、実際は共に無極から生まれ出ている。そうであるから「同じく」とある。「名」において違いが生じているのは、「無名」であるからではなく、またけっして「有名」であるからでもない。それ以前の万物の生まれる兆しによっている。「有名」は「無」をして言うことはできない。そこにおいて「名」は万物の状態を表している。「玄」は捉えることができない。始めも終わりも無く、形も無い。言葉で表現することもできない、至静、至明、至円、至浩、至顕、至露、至真、至常で、混沌としていること限りがない。妙用は自在であり、そうであるのでこれを「玄」と謂う。ために「これを玄」とあるわけである。ここで「この両つは、同じく出て名を異にす」とあるのは、これは無名も有名も等しく「玄」であるからであることを知らなければならない。


〈奥義伝開〉「常の有」「常の無」は一般的には「常に欲有れば」「常に欲無ければ」と読ませる。しかし、これであると欲の無い状態で知ることのできる「妙」は肯定的なもので、欲の有る状態で知ることのできる「キョウ(こみち)」は否定的なものと予想される。しかし、ここでは「有」も「無」も共に否定的、肯定的な価値によるものではないとして、「常」は本来の欲が無ければ先天の「妙」を、本来的な欲が有れば後天の「キョウ」を知ることができるとする。


玄のまた玄たるは、衆妙の門たり。

何らの兆しもなく、始めも終わりもない。これを「玄」と謂うことができる。その大きいことは限りなく、微細であることも限りがない。真の真であり、確かであること限りなく、また玄の玄たるものでもない。無にあって「玄」を観れば「玄の妙」を知ることができる。有にあってこれを観れば「玄の真」を知ることができる。有から観れば、有も無も同じところから発していることが分かるのであり、こうして玄の変化の無窮であることを更に深く認識することができる。太虚には太虚の妙がある。天地には天地の妙がある。万物には万物の妙がある。一切の形あるもの、形のないもの、存在しているもの、存在していないもの、これらはすべてこの「玄」の門から出入りをしている。これを「玄のまた玄」「衆妙の門」と謂っている。もし「衆妙の門」を我が身において考えるなら、朱子の言う「人が天から得ているもの」ということになる。つまり「霊虚」はよく分からないものではなく、あらゆることの「理」なのである。そうであるから万事に関係性が生じているのである。これが「道」であることを知らなければならない。天地は至大であるといっても、万物は至繁(限りなく多い)であるといっても、自分の(本来有している善なる性質である)「性」の範疇から出るものではない。人ははたして「玄のまた玄」を知ることができるのであろうか。キョウの妙を知ることができるのであろうか。「名」のあるもの、「名」のないもの、「道」であるもの、「道」でないもの、人はこれらを遠くに求めて悟りを得られないでいる。取るに足りない妄説にかかわっている必要があるであろうか。それでは理解が届かず、迷うばかりとなろう。こうしたことをしていて「性」への悟りが得られないのが聖人の教えが足りないせいであるとどうしてすることができるであろうか。


〈奥義伝開〉この世は「理」と「気」でできていると考えるのが儒教である。「虚」は先天、「霊」は後天を象徴するもので、「理」は先天後天ともに存しているとする。ちなみに道家は「理」を「道」とする。共に一定の法則があるというわけである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)