宋常星『太上道徳経講義」(1−3)

 宋常星『太上道徳経講義」(1−3)

有名は万物の母。

大道が無名であることは既に述べたが、それでは「有名」とはどういったことなのであろうか。そこには「道」があり、そこには「理」がある。「理」は天地万物に存している。それは「無から有が生まれる」ということである。「一をして万に化す」ということである。これらは全て無極から発している。この「無極」という「名」こそが「有名は万物の母」とされている「有名」なのであり、全ては(無極から生まれている)自然の妙とすることができるであろう。そうであるから天地は「道」より生じているのであり、万物は「道」から生まれているのである。つまり「道」は天地万物の母なのである。これはよく理解納得されるべきである。修道の人で、もしこの「有名の母」への悟り(無極への悟り)を得たならば、万物がそれぞれ「一性」を有していることが分かろう。万物は全て「一性」において同じなのであり、それぞれが「名」を持っていたとしても、本源にあっては「無名」であることになる。(「一」とは根源ということ、「性」は本質ということで、あらゆるものは善なる性を有している。この「善」を悟ることが「有名の母」を知ることなる)


〈奥義伝開〉「一」も「性」も同じ根源を象徴している。道家では「一」、儒家では「性」となろうか。儒家では「性」は本来的には「善」であると教えている。


故に常の無、もってその妙を観(み)んと欲す。

「常の無」は音もなく、香りもない、古くから今に至るまで、その存在の形態を変えることがないので、これを「常の無」という。つまり老子は人々が、「常の無」の中にあることを知るべきであると考えていたのであり、そこにあって至道の生まれ変化をすることの妙を観てもらいたいと思っていたのである。真常の妙はつまりは「無の中に有を生ずる」ところにある。この「有」は尽きることがないので「妙」とされる。人ははたして「常の無」を観ることができるのであろうか。心にその妙を得ることができれば、つまり「常の無」を知ることができるであろう。それは「無名」であり「天地の始り」でもある。ここで(永遠なる「無」への悟りをいう)「常の無、もってその妙を観んと欲す」とあるのはつまりはこういうことなのである。


〈奥義伝開〉「常の無」とは「無極」「先天」のことである。この「虚」からあらゆるものが生じているとされる。この先天の世界は後天の「天地の始り」より先に存していたが、天地が開けてからもそこにある。この世にはこのように二つの世界が存しているのであり、反対の世界では価値も逆転する。この世で最も価値のあるものが最も価値のないものでもあるのである。


常の有、もってその「こみち(キョウ)」を観んと欲す。

「常の有」とは形のあるもののことである。古くから今に至るまで、あらゆる存在がそうである。これがつまり「常の有」と謂われる。ここに老子は人をして「常の有」の中にあって、そこでの至道ぼそれぞれに的確な「こみち」があるので、それを観ることで得られると教えている。つまり、それぞれの「みち(キョウ)」は無に依って存しているのであり、それは微かな存在で、よく知られることがない。ために「こみち(キョウ)」と称されている。人ははたしてよく「常の有」を観ることができるのであろうか。「こみち」なるものをよく観ることができれば、つまり「常の有」をも悟ることができる。つまりこれは「有名」が「万物の母」ということなのである。ここでは「常の有、もってその「こみち」を観んと欲す」とあるが、これは「こみち」が、つまり「万物の母」である無極であることを悟るということである。


〈奥義伝開〉「キョウ」は「小道(こみち)」であり「めぐる」ものでもある。ヨーガでいうチャクラと同じものを老子は観ていたことが分かる。「小道」が「大道(だいどう)」に通じるものであることはいうまでもなかろう。


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