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第一章 塩田剛三と金魚(13)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (13) 近世あたりに確立されつつあった坐禅の「静功」としての位置付けは「外功」としての技の修練と合わせてかなり理想的な体系であり好ましいものであったと考えるが、「内功」としての坐禅はあやふやな「位置」にあり、近代以降に「国家神道」政策がとられるようになるとこれもなんとなく精神的な部分の鍛錬として神道が禅を代替し得るものと見なされ、「鎮魂」や「禊」などのいろいろな行法が合気道では取り入れられた。伝説上の始めの天皇が「神武」であることから戦中あたりは日本の武道は「神武」であるとして神道と密接なかかわりがあるように説かれることもあった(実際の「神武」の「神」が神のように偉大であるという意味であって神道とは関係はない)。

第一章 塩田剛三と金魚(12)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (12) ただ「神道思想」とは何かということはその範囲や内容を示すことは難しい。それはある時は『古事記』に記された思想をもって語られ、あるいは国学者の唱えた復古神道や近代あたりの教派神道の教えをして理解されたりもしている。他には民俗信仰などが神道と解されることもある。『古事記』や『日本書紀』は本来が歴史書であって神道の教義書ではない。また復古神道や儒家神道などは特定の思想を背景として「神道説」を展開したものである。また大本教のような教派神道は「開祖」とされる人物の思想によっている。近代になって「神道」としてコンセンサスの得られたイメージが日本独自の精神世界を表すものと見なされるようになると、川面凡児に代表されるような「修養」が盛んに行われるようになった。こうした風潮を受けて植芝盛平も神道的な「修養」法を取り入れることになる。天の鳥舟(舟漕ぎ運動)や魂振などは川面の教えたことそのものである。

第一章 塩田剛三と金魚(11)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (11) 攻防を行えば必ず負ける。生涯不敗であったとする「伝説」が例え真実であったとしてもそれは単なる偶然に過ぎないことであろう。こうした武術の技の「限界」を越えようとして坐禅や呪術が試みられて来た。近世あたりから武術の技を越えるものとして、そのとらわれからの解放を期するものとして禅が修されるようになった。しかし武道の伝書を見ても呪術が記されることはあっても禅がその教学大系に組み込まれることはなかったのである。つまり坐禅は武術の技の修練としての「動功」に対する「静功」といして位置付けられることはなかったのである。植芝盛平の神道的な行法も合気道の修練とどのような関係にあるのかが明示されることはない。確かに盛平は「禊」や「天の御中主の神」「荒魂」など神道的な用語をして自らの会得した境地について語っているが、そのれが神道の思想を受けたものかというとそうでもない。

第一章 塩田剛三と金魚(10)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (10) 一方「宗教」的な部分については植芝盛平と大本教との関係が知られている。ただ、それは教義によるものではなく、出口王仁三郎と出会うことで、武術的な力が開いたと思える体験があったために「大本教」へと傾倒して行ったのである。実際は内的な力を開いてくれる師として王仁三郎を慕っていたということができよう。子息の吉祥丸によれば盛平は霊能者が居ればすぐに行って教えを受けていたらしい。そしてそれは家計が苦しい時も変わることがなく母親には苦労を掛けていたと語っていた。また紙を咥えてろうそくの炎を見つめるなどの行法を実践したりすることもあったらしい。盛平は神秘的な力を得ることにかなり深い関心を持っていたようである。

第一章 塩田剛三と金魚(9)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (9) 盛平は大東流の中に認めたと考えられる草薙剣に象徴されるような封じられた力とはどのようなものであったのであろうか。 合気道における「武術」的な部分は大東流で代表される。盛平自身は大東流をかなり深いところまで学んでいたはずであるが合気道で採られているのは比較的初歩の技のみである。これについては大東流が広く知られるようになると少なからず合気道を稽古している人たちの注意をひくこととなった。また大東流サイドからは「合気道は大東流の 初心の手しかない」などと言われることもあった。しかし、盛平が大東流の比較的簡単な技をのみを合気道に採ったのは、ひとつには合気道を単なる攻防の武術ではなく心身を浄化するためのエクササイズとして確立しようとしたこと、もうひとつは複雑な逆手技は実戦に適さないと考えていたこともあるようである。そうしたこともあって盛平は合気道は実戦にあっては「当身が七分」としていたのである。

第一章 塩田剛三と金魚(8)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (8) 植芝盛平は合気道を草薙剣の発動であるとしていた。草薙剣は熱田神宮に封印された。その働きが再び合気道として現われ出たのが合気道であると考えていた。こうした封じられた「霊的な力」を開放することは大本教で見られる考え方である。出口王仁三郎は大本教には「型」が出ると教えていた。根源的、原理的なパターンが象徴的に大本教において現れるというのである。「封じられた霊的な力」が大本教において開放されたのであれば、それは武術界においても当然生じなければならない。出雲にあった草薙剣は高天原に封じられたと神話にある。しかし後に倭建(やまとたける)の頃になるとなぜか熱田神宮に封じられていた。これは大和朝廷が出雲から草薙剣を奪って熱田神宮に封じたことを「高天原」へ移したとしていたためである。その力は戦争に日本が負けることで大和朝廷を受け継ぐ天皇家の封印が解かれることになった。そこに草薙剣の発動としての合気道が自ずから世に出て来たのであり、盛平はその働きを助けたのみと自身も考えていたので自らの働きを猿田彦としていたわけである。

第一章 塩田剛三と金魚(7)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (7) このように中国において禅は武術とは直接の関係を持つことはなかった。一方で内功としてのトウ功は太古の導引からの伝統を引き継ぐものであった。等しく儒教の静坐も同様である。トウ功のトウとは「杙(くい)」のことである。杙が立っているように動かないでいるのがトウ功である。静坐もこれと同じくただ動かないで坐ることを専らとする。実は禅宗の坐禅もこのトウ功の影響を受けて中国化した仏教瞑想なのであるから、武術のトウ功と坐禅は古代の導引を受け継いで共に近しい関係にあるということになる。おそらく太古の導引においては瞑想も運動も未分化であり融合していたのではなかろうか。それが後代に瞑想と運動に分かれ、瞑想は仏教に入って坐禅を生み、儒教に入って静坐となり、道教では心斎、坐忘などとなった。一方、運動の部分は八段錦や五禽戯などの健康法となり、また武術として展開をして行ったものと思われる。やや武術的な方面に偏っているが太極拳などは古代の導引に近い瞑想的な要素を多分に有するものである。