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道竅談 李涵虚(153)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(153)第十七章  神、気、精を論ずる 「そうでありますか。ありがとうございます」 「天地が人を生むのである。そうであるからこの世に天の道が立つのであり、天の徳が行われるのである。そうであるから内に真を成せば、外に出て活動しても問題のないことになる。天地の造化は広大で、これがなければ仙道が盛んになっても、人道は必ず衰えてしまうことであろう。そうであるから人が生まれる『順』な道で天の道を実現することができなければ、仙が生まれる『逆』の道が重んじられることになるのである。これが人元の大道である。こうして天はひとつひとつ万物を作って行き余すところがないのであり、それは天地の範囲を越えることはない。ただ人はここに神、気、精のあることを知れば良いだけである」 〈補注〉「天地の造化」は「天の道」である。それによりあらゆる物が生み出されている。そうであるから人元のレベルでも天の道は実践することが可能とされる。神仙道においてもただに後天の「精、気、神」を整えるだけの修行であれば、天の道は行われない。必ず天の道を開くための修行である「人元の大道」が修されなければならない。童子の頃に神仙道に出会ったならば「順」の修行をしていれば良い。「順」の修行とは特別なことをしないということである。「逆」の修行とは導引や瞑想などを行うことで、それを経て忘れてしまった「天の道」「天地の造化」を再び開くことをいう。

道竅談 李涵虚(152)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(152)第十七章  神、気、精を論ずる 或いは「天元はそれほど重要なことなのでしょうか。どうか天元について説明をしてください」と問われれば、わたしは次のように答えるであろう。 「天元とは、天地が陰陽五行をして、それを化して人や物を生じさせるところのものである。気をもって形をなすのであり、理がまたこれに付与される。人の気は元気から生まれる。父母がいまだ交わりを持たない前にこの気は現れることも活動することも無くただ存している。父母が交わりを持った時にこの気はそこに下って活動を始める。儒家のいう『天が諸人を生む(天、蒸民を生む)』『物質のあるところ法則がある(物あれば則あり)』がこれである。この気はひじょうに不可思議なもので、不可思議であるから神を有しているといえる。この神は元神である。またこの気はひじょうに清らかである。清らかであるのは至精であるからに他ならない。この精は元精で、子供を身ごもる前、そこには元気が存しており、ここでは後天の呼吸の気はいまだ活動をしていない。こうして十か月で子供の形が完全となる。口や鼻の形もかすかに伺うことができるようになる。この時、子供は母親の呼吸を通じて、外にある天地の太和を取り入れている。それと同時に血は陰神を巡らせることになる。こうして呼吸ができるようになって行くのであり、後天の神と気の二つが完全なものとなって行き、この世に生まれ出ることになる。都合の良いことに生まれたばかりの時は、口はものを言って考えを述べることはできないし、目は笑って感情を表現sることもできない。知識を得ることもないし、分別をすることもなく、元気と一体化している。思うことも考えることもないので陰神も働くことがない。元気と元神は互いに助けあって養いあっている。そして十六歳になると神が完全となり気も充分となる。こうなると陽が極まって陰が生ずる。そしてそれが変じて後天交感の精が生じることになる。そして欲火が盛んとなり、陰神が思いのままに働くようになる。そうであるから徳のある子供が師に逢うことができれば、天元の体を清静のままで修行に入ることができ、そのまま特別な修行をしてなるのではない『無為の天仙』となることができる。もし後天の働きが出てしまうと先天は後退することになる。そうであるから『天元は修行しやすい』と言われているのである。どうして性的な...

道竅談 李涵虚(151)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(151)第十七章  神、気、精を論ずる 〈本文〉 「心印経」には「上薬には三品ある。神と気、精である。これは修丹の妙物で、そこで最も重要なのは元神、元気と元精であり、真精、真気と真神である」と記されている。ここでの「元」とは何であろうか。それは「先天」である。「真」とは何であろうか。これも「先天」である。先天の「元」とは生まれる前に生じているということであり、「童子の天元」とは童子は生まれる前のもの(先天)を失うことなく有しているということである。先天の「真」とは大道を成すもので、我々の人元においてそれが実践される。「(先)天」を得ることなく修行をしたならば、それは必ず人元に留まるものとなるであろう。 〈補注〉神仙道の修行で最も基本となるのは「精、気、神」である。そして、一般に修行で用いられているのは後天の「精、気、神」とされるが、それには先天の「精、気、神」があるとする。また先天の「精、気、神」には「元」と「真」がある。西派では「元」と「真」を別なレベルとするが、多くの流派では「元」がつまりは「真」であると教えている。つまり後天の「精、気、神」は不完全なものであり、先天の「元精、元気、元神」は完全なものなのでこれを「真精、真気、真神」であるとするわけで西派のように「元」と「真」をあえて区別することはしない。また、ここでは「童子の天元」が取り上げられている(「天元」については次に詳しく述べられる)が、要するにこれは「天地の造化」のことでもある。生成の働きの根本(先天の生成の働き)をいっているのである。

道竅談 李涵虚(150)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(150)第十七章  神、気、精を論ずる 西派では神、気、精についていろいろと煩雑なことが述べられているが、修行の根本となるのはただ「動かないでいる」ということに尽きる。覚醒した状態で「動かないでいる」ことは日常生活ではあり得ない。これを実践することで普通の生活では得ることのできない知見が得られることを経験的に知って静坐・坐忘・心斎という修行法が確立された。こうした「静」の状態で心身に生じるいろいろな変化を説明しようとして神や気、精などの概念を立てているのであるが、禅宗や儒教ではそうしたものを排してしまった。神仙道でそうした「文化的遺産」をなるべく取り入れようとしたのが西派である。西派で組み立てようとしているのは神仙道を修行する過程で派生したいろいろな「思考の断片」「感覚の影」である。そうしたものを細かに見ることは時に修行者をして「迷路」に導くことになるが、尽きない興味をおこさせてくれるものでもある。

道竅談 李涵虚(149)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(149)第十七章  神、気、精を論ずる 後には「陰欲」を肯定する派は「栽接派」、否定する派は「清浄派」などと称され、あたかも「栽接派」が房中術なる性技巧を使って神仙道の最終的な悟りを得ようとするものであるかの如くの誤解が生まれた。主に南方で展開したとされる栽接派は本来が健康法から発した神仙道の形を留めるもので、性的なものを否定しないというに過ぎない。それに対して北方で主に行われたとされる清浄派では仏教の影響を受けて平穏な瞑想をするには性的なものを避けた方が良いと教えている。ただこれは無為自然を規範とする神仙道からすれば歪(いびつ)な形ではある。性的なものは積極的に肯定されるべきでも否定されるべきでもない。他の事象と同じく過度にとらわれなければそれで良いのである。

道竅談 李涵虚(148)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(148)第十七章  神、気、精を論ずる この章では未だ先天の元神、元気、元精の働き閉じてしまっていない童子の頃に神仙道と出会ったならば特別な修行をしなくても仙人になることができるとしている。これが『西遊記』の三蔵法師である。三蔵は童子の頃に仏教に出会っているので「先天の気」がそのままに保たれている。そうであるから妖怪たちはその「肉=先天真陽の気」を美味として食べたがる。『西遊記』は仏教よりの神仙道の教えを説いているので孫悟空が最も活躍をする。空への悟りを得ることが重要と教えるわけである。また沙悟浄もいるが、この浄を悟るというのは神仙道の悟りということになる。ただ沙悟浄はあまり活躍をしない。猪八戒も仏教の戒律を象徴している。あるいは八戒を儒教のキャラクターとすれば儒、仏、道の合一の物語とすることができたであろう。中国では仏教と神仙道の融合が禅宗や神仙道の北派、清浄派で生じた。仏教を取り入れるか否かは「陰欲」を肯定するか否定するかにあった。また儒教と神仙道の融合は朱子学や陽明学に見ることができる。朱子学者や陽明学者はひたすら否定したがるが、これらは実質的には禅宗の影響が色濃く存している。禅宗は仏教と神仙道が融合して成立しているものであるから朱子学や陽明学では実質的には儒、仏、道の融合がなされたと見なすこともできる。

道竅談 李涵虚(147)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(147)第十七章  神、気、精を論ずる 〈要点〉 「神」とは思考のことであり、「気」は感情、「精」は肉体(物質)をいう。我々の思考も感情も肉体も不完全である。なかなか正しい思考をすることは難しいし、平穏なる感情を保つことも困難である。また肉体も注意を怠ると機能不全(病気)が発生してしまう。「そうであるのが人である」と考えればそれまでとなるが、より正しい思考、あるべき感情や肉体の状態を得ることができるのではないかという気持ちを持つところから修行は始まることになる。そこで神仙道では本来の思考である「元神」、本来の感情である「元気」そして本来の肉体である「元精」はあるべき状態に存していると考える。そうであるからそれを回復させれば良いのであり、それが神仙道の修行となる。これは太極拳などでも同様で、新しいものを得るのではなく、本来の状態に復するための修行と考える。