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第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(12)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(12) 形意拳の半歩崩拳も単換掌も共に中段の構えをベースとする技である。中段の構えが重要とされるのはあらゆる変化が可能であるからに他ならない。そしてこれらに歩法が加わることで半歩崩拳や単換掌は絶招となったのである。半歩崩拳は「直」の歩法であり、単換掌は「斜」である。いづれも入身の歩法であることに変わりはない。合気道的にいうなら形意拳は「表」の入身であり、八卦掌は「裏」の入身を使っていることになろう。そうであるので単換掌では相手の背後に回り込むことになっている。この入身は基本的には八卦掌の全てにおいて理想とされている。そしてこれを完成させるためには「斜」の歩法がなければならない。そうでなければ二打目に完全な死角に入ることはできないのである。こうした死角に入る歩法は特に暗腿と称される。単換掌に続くのが双換掌でこれは主として上下の変化が加わる。単換掌を使った時にそれが成立しない状況になったならば、そのまま上下の変化の双換掌に移るのである。もし双換掌で対したならば、たとえ金剛搗堆で単換掌を対されてもそれを破ることが可能であったことであろう。このような変化のタイミング(機)を知るには修練を積むより他にない。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(11)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(11) 八卦掌の絶招・単換掌を破った人物がいる。それは陳発科であるとされている。単換掌を打たれた陳発科は金剛搗堆で対した。単換掌で打ってくる手を受ければ必ず中段を打たれてしまう。瞬時にそれを知った発科は身を沈めて攻撃をかわし、攻防において絶招の成立を阻止したのである。単換掌は上段の攻撃であるから、金剛搗堆で対することはこれを下段の攻防に持ち込むことを意味している。このように絶招であっても、その前提となるシチュエーションを成立させなくしてしまえばそれを封じることは可能となる。ちなみのこれは李剣華という発科の八卦掌の弟子との間の攻防であったともされている。発科は肩による靠で相手を彼方に飛ばしたという。これを八卦掌の側からいえば、第一にはどうしても攻撃を受けざるを得ないような間合いで第一撃を放たなければならなかった。そのためには「髄」のレベルの鍛錬が必要であった。触れること無く相手の未発の動きを知った発科は「髄」のレベルに到達しており、単換掌に導くことのできなかった八卦掌側はいまだ「髄」に至っていなかったと解することができる。つまり絶招は封じることはできでも破ることはできないのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(10)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(10) 現代の多くの八卦掌諸派に身られるこうした「錯誤」はひとつのシステムにおいて「暗」のみではそれを完結させることのできないことを示している。つまり八卦掌においても、一度は「明」の心身の使い方を知っておかなければならないのである。八卦拳は清朝末期に世に出た拳で北京で董海川が八卦拳を教えた相手は既に一流の武術の達人たちであった。そこでは八卦拳の「明」を練る「拳」の部分は必要なく、専ら「暗」を練る「掌」をのみ教えれば良かったのであった。また世に広まった天津派の八卦掌は張占魁や李存義という形意拳家によるものであり、ここでも「明」は形意拳によって充分に鍛錬されていた。その上で八卦掌は「暗」を担うことで、ひとつのシステムの完成を促すことが可能となったのである。つまりひとつのシステムとしては形意拳からすれば八卦掌の修練により「暗」の勁の使い方(滾勁)を知ることが容易になったのであるし、八卦掌からすれば形意拳を練ることで「明」の勁の運用を知ることが可能となるのである。形意拳も八卦掌も中段の構えを基本としているので、これら二つのシステムはより密接に、強固に結びつくことが可能であった。ちなみに形意拳の中段の構えは正面を向いているが、八卦掌は横を向いている。これは「明」と「暗」の勁の使い方を明確に示すものである。身体の構造上、「明」の力を有効に使うためには正面(直)でなければならないし、、入身を使うには横向き(斜)である必要があるのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(9)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(9) 八卦掌では「暗」が基本であるので、機械で計測できるようなパワーを攻撃に求めてもそれを得ることはできない。そうしたところから八卦掌を投げ技として理解しようとする傾向が生じたうようである。これは八卦掌が「掌だけを用いて攻防を行う」などと喧伝されるようになったことも原因しているのかもしれない。こうした誤りが生まれるのは八卦拳が既に説明したように「拳」の系統と「掌」の系統の二つの体系によって構成されていて、八卦掌は専らその「掌」の系統によっているということが原因しているであろう。本来は成立することのない「掌」のみのシステムである八卦掌をそれだけでひとつの完成したシステムとして見ようとしたところに、こうした錯誤が生まれたものと思われる。また八卦掌を暗器などの小型の武器を使う術ではないかとする誤解も見受けられる。そうした説を唱えている人から火箸ほどもあるような点穴針を使う演武を見せられると苦笑を禁じ得ない。暗器は門派に関係なく使われるもので、掌の中に納まるくらいの大きさが基本である。相手に見えないので「暗」とされる。相手に見えてしまっては暗器を使う意味がない。またこれは八卦掌が「暗」勁を使うということから、「暗」に共通するイメージとしての「暗」器との関連が考えらたとも考えれれるが、当を得たものでない。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(8)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(8) 日本に「髄」(意識・呼吸)の優れた鍛錬法が伝えられているのは日本の文化そのものが呼吸、間合いを重視したものであったということにも関係していよう。つまりに日本人の持つ文化土壌がそうしたものを基盤としているので、武術においても優れた呼吸の鍛錬法が確立されたということなのであろう。ちなみに合気道の呼吸投げの練習が呼吸を会得するのに優れた方法であることを述べたが一旦、「呼吸」のタイミングを会得したなら、それを日本刀の素振りで練ることが可能である。合気道が剣術から生まれたとされるのは、おそらくは「呼吸」の共通性をいっているものと思われる。かつては「合気道は剣の動きから生まれた」とされるので、合気道の源流となった大東流を伝えた武田惣角の修行した小野派一刀流を研究する人も居たが、技術上に目立った合気道との共通点を見出すことは出来なかったようである。それは個々の刀法の身法や歩法に「源流」があるのではなく、日本刀を使う「呼吸」が共通しているからであった。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(7)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(7) 適切に相手の反応を得るように鍛錬をするのが「筋」の練習である。そして「化」では「髄」(意識)を使うことになる。「化」のレベルでは意識の死角ともいうべきものを使うわけである。これは太極拳では凌空勁などと称する。相手に直接に触れることがなく、その反応を導き出すことができるためである。日本ではこれを「呼吸」「間合い」などと称する。合気道の呼吸投げはその優れた鍛錬法といえよう。八卦掌や太極拳、形意拳などでも「呼吸」の鍛錬をするが実感としては呼吸投げのように相手を投げてしまうまで一連の動作を行うと呼吸と動きの関連がよく見えてくるように思われる。中国武術では相手が崩れた時点で止めてしまうので、なかなか呼吸と動きの関係が分かりにくい。相手を投げるところまで動作を続ければ息を吸って吐き切るところまで行く。これが呼吸の鍛錬として分かりやすい部分でもある。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(6)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(6) 相手の反応を誘う攻撃は日本の柔術の当身と同じである。当身には本当(ほんあて)と仮当(かりあて)、あるいは当(あて)と砕(くだき)があるとされているが、単換掌の第一撃は「仮当・当」であり、第二撃が「本当・砕」となる。こうした当身の奥義は天神真流など当身で知られた流派では存していたらしいが現在は既に失伝しているようである。一方、植芝盛平や塩田剛三は独自にその方法を会得していたと思われる。一般的な突きと当身の違いはおおまかにいうなら前足の膝の抜けを使うか否かにある。一般的な突きは後足の踏み込みの力と腰の回転を使うが、八卦掌や形意拳、柔術の当身は前膝の抜けを使う。これは沈身と称される。前膝の抜けを使うには入身で移動をしながら当身を打つためである。