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道徳武芸研究 「合気」の柔術史的展開について〜その矛盾と止揚〜(1)

  道徳武芸研究 「合気」の柔術史的展開について〜その矛盾と止揚〜(1) 「合気」はそれを単に技術として太極拳のように「粘」と捉えたならば、それをして相手を倒すことに何らの矛盾もないが、これを「和合」であるとか「愛」であるとかの理念を介することになれば相手を倒すことに「合気」を用いることに矛盾が生じてしまう。これが合気道を実戦で使う場合のいうならば「足かせ」となっている側面もある(有効な技への展開が難しい)。日本の柔術史から言えば合気道はそのシステムにおいて現在のところ頂点にあるとすることができるであろう。日本の柔術史のベースにあるのは「柔(やわら)」である。これは日本人の民族性から出たもので、既に聖徳太子の十七条憲法の時には争いを解決する手段として「和」が示されていた。「和」は古い文書には「やわらかき」と仮名が振ってある。つまり争いには「和=柔」をして接することで解決をせよと教えていたのであって、どちらかが正しいとか、力の優劣による等の解決策は教えられていない。こうした争いを回避する「和」の理念を「柔」として具体的な攻防の技術にするには近世の柔術の出現を待たなければならなかった。ただ「柔」のイメージは既に出雲神話にタケミカヅチがタケミナカタを投げるシーンで、その腕が「氷の柱」のようになって、掴んでも力が入らなかったとする記述に見られる。それは、あるべき理想としては語られていたが、あくまで「神話」の世界の話しであった。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー4) 子孫の行う祭祀も途絶えることがない。 至善の道徳は、天下にあっても、後世に及んでも、不朽なものである。つまり道徳とは広く深い「道」であり、人々はそれから離れることがないばかりか、子孫に及ぶまで人々は「道」と一体なのである。そうであれば子孫の祭祀も絶えることはない。古くから伝わる祭祀は全てが慣習となっており、決まった日に行われるものである。そして、その日に備えて潔斎をして、供え物を整えて、祭器を洗っておく。当日には供物を整えて謹厳に祭祀は行われる。遥か古代の祖先に思いを致し、子孫の孝養を尽くすのである。そうして祭祀を絶やすことなくして道徳の恵みを得る。「道」の修行をする者は、必ず天下や後世、子々孫々まで、道徳の恩恵を得ることができるのであり、それは尽きることがない。ここに道徳の妙がある。 〈奥義伝開〉「不脱」と同様の例として祭祀が挙げられているが、ここでは「不輟」として「輟(てつ)」の語が用いられている。この字は「又」が「部品」を表し、それが組み合わされて「車」になることを示しており、そうなれば全ては「車」となって個々に「又」のあることは見失われてしまう。つまり「輟」は「又」の意味が途中で失われて「車」となるということを表しているわけである。祭祀でいえば一回、一回の祭祀が連なっているのが途中で途絶えるのが「輟」であるが、「善」を実行していればそうした事態は生じないとする(不輟)のである。この「不輟」も太極拳の「粘」が相手の状況に応じて細かく変化をして「綿綿不断」となるのと同じである。ここの状況への変化の対応は見えなくなって、連続して相手をキープできているように見えるわけである。特に興味深いのはここで「不脱」と「不輟」が同じフレーズで語られていることであろう。やはり老子は何等か後の太極拳に通じるようなエクササイズを実践していたのではないかと思われるのである。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー3) 「善」をしてよく抱きかかえれば、それを脱することはできないし、 常に離れることがなく、心身が合一している。これが「抱」である。始めがあっても終わりが無いのは永遠であると言えよう。つまり「抱」という始めの行為が「脱」として終わりを迎えないのは「善」が実践されているからなのである。こうしたことがつまりは至「善」の理なのである。そうした状態で建物を建てれば崩れることがないばかりか、人がよく「善」であれば、そこに行為のよろしきを得ることができる。自己の中の大いなる「道」を保持していて、一時も離れることはない。「道」のままにあって、少しもそれを脱することがないのである。それは自然であり、天地と等しく限りがない。徳は日月の如くに明らかで、その功は天下に及んでいる。そしてそれは万物に及んで尽きることがない。それは時が移っても変わることはない。そうした状態が「善」を抱いているとされる。そしてそれは終わる(脱する)ことはないのである。こうしたことを「『善』をしてよく抱きかかえれば、それを脱することはない(注 宋常星の解釈に合わせて「不脱」をこう訳した。これは冒頭の訳とは違っている)」としている。 〈奥義伝開〉相手をホールドして逃げさせないのは、まさに太極拳でいう「粘」であり、「合気」でもある。中国でも、日本でも老子のいう「善」を体得するためのシステムは常に模索されていた。そのひとつの完成形が太極拳であり合気道である。「善」の実践という視点から見れば、相手と一体化した時点、相手をホールドして「脱」っすることのできない状態にした時点でそれは終わっているのであって、相手を投げたり、固めたりするのは「善」の実践からは派生した行為ということになる。これがよく分かるのは太極拳の「按」で「按」は掌を下に推して相手の攻撃を流したところで終わっている。次に前に掌を推すのは「按」に付属する動作である。こうした展開は老子の教える「善」そのもので「不脱」の状態がつまりは「按」というわけである。太極拳も合気道も相手を攻撃することを最終的な目的として見てしまうと、その本質を見失ってしまうことであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー2) 建築において「善」を実行すれば、建物が崩れるようなことはない。 「善」とは最も適切であるということである。建築とは建物を建てることである。建物が崩れてしまうと建物は無くなってしまう。それと同じく自分が「善」の立場にあれば、それは自然のままなのであるから天地はそれを崩すことはできない。鬼神もどうすることもできず、陰陽の変転にあってもそれが崩されることはない。あらゆる存在がそれを犯すことはできず、それは至堅、至固なるものといえる。またそれは変わることのない至常であり、至久なのである。そうであるから「善」をして建物を建てれば、それが崩壊することはないのである。そうしたことを「建築において『善』を実行すれば、建物が崩れるようなことはない」と述べている。 〈奥義伝開〉建物が崩れないというのは「不抜」という言い方がされている。これは太極拳でいう「抜根」の「根」と同じで「安定の基礎」ということである。これを武術的にいえば「根」は重心のことで、重心を崩すのが「抜根」である。太極拳はまず「抜根」を行い相手をコントロールしようとする。それはつまりは「善」の実行、つまり「道」を行うことであり、自然のあるべきを為すことなのである。建物も自然のままに無理のない建て方をしていれば崩壊することはないわけである。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(8)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(8) 柳生心眼流も流派名としては特異である。仙台藩の記録では心眼流として記されているようであるが、これに柳生があるのは流祖ともいうべき竹永隼人が柳生宗矩から新陰流を学んだためとされている。しかし、そうであるなら柳生より新陰流の方の名が取られるべきではなかろうか。また柳生家では新陰流とのみ称していて、その本流としての矜持を持っている。ちなみに小野派一刀流を伝承する小野家でも自分の流派は「一刀流」であるとしている。竹永隼人が新陰流を学んで流派を開いたならば、新陰流から心眼流で良いであろう。あるいは新陰流柔術、将軍家の学ぶ剣術であることを憚(はばか)るならば新蔭流なども考えられる(居合の田宮流には民弥流と称する伝承もある)。そもそも柳生新陰流という名は講談などで広まった名称であり、武術の世界では用いない。思うに心眼流は四代目とされる小山左門を中興の祖としていて、この頃に関東などにも広く伝えられたようであるから、小山あたりから柳生を冠した呼称が広まったのではないかと推察される。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(7)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(7) 意拳はまた大成拳と称することもある。大成は中国武術では小成、大成の語があり、一通り武術の形に習熟するのが小成で、これには六年ほどかかるとされる。一方、大成は自分で拳を深めて行くことのできる段階でこれには十年の歳月を要するとされる。そうしたところからすれば、大成拳には大成にまで至ることのできる完成されたシステムの拳という意味があると考えられる。張壁は「大成拳の命名と大成拳の解説」で「大成」とは「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ということであり、王陽明の「知行合一」でもあるとしている。つまり心身が適切なバランスを保たれて、正しく活用されている状態ということである。太気拳は正式には太気至聖拳というらしいが、この「大成」と「至聖」をつなぐものとして「大成至聖文宣先師孔子」があるのではなかろうか。これは孔子の呼び方のひとつであり、孔子廟には大成殿があるし、至聖廟と称されるものもある。つまり澤井が学んだ時には大成拳が使われていたのではないかと思われるのである。そしてそれは孔子、儒教をイメージさせるものであったために、大陸が共産化して孔子が批判されるようになってからは意拳の方を主として使うようになったのではないかと推測されるわけである。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(6)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(6) 陳発科が北京に出て陳家太極拳を教えた時に既に広まっていた楊家などの「太極拳とは違う」と言われても、発科は「我々はこのように拳を練っている」というだけであったとされる。つまり発科が生きた二十世紀初頭あたりの陳家溝では陳家太極拳という名称が必ずしも定着していなかったことをこれは示していよう。つまり他との交流がなければ個々の名称がことさら意識されることは少ないということである。ちなみの日本では太気拳という流派があるが、これは太極拳が発想の基にあるのではなかろうか。「太極」「太気」ともに「タイ・チー」である。また「太気」という語には特段の意味が無い。一般に中国武術にはそれぞれに意味を持つ名が付されるものである。太気拳の基になった意拳は形意拳の形(かたち)を排してその奥にある「意」のみを重視したという流派の技法の特色を名としている。