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道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(5)

  道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(5) 蟷螂拳には分身八肘とされる秘伝套路がある。これは肘での攻撃を主としているが、あるいは八卦拳の影響がそこにはあるのではないかと思う。宮宝田が清朝の崩壊と共に北京から故郷の山東省に帰ってから、その地域にあった蟷螂拳との争いが生じることになる。こうした過程で八卦拳にも蟷螂拳の影響と見られる動き(掃腿など)が取り入れられたし、おそらく蟷螂拳でも同様に八卦拳の動きを参考にした部分があったのではないかと思われる。それが分身八肘である。この「分身」という名称からは両儀、四象、八卦と体を細分化して捉える八卦拳の視点が伺えるし、そうした細分化が具体的には「肘」の使い方によってなされること、また八肘という数も八卦との関連をイメージさせる。

宋常星『太上道徳経講義』(36ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(36ー6) こうしたことを「微明」という。 この一節では、これまでのことが総括されている。これまで例えとして収斂や拡散、弱いことや強いこと、衰退や興隆、奪うことや与えることといった事例が挙げれて来ており、そこでの「理」も明らかにされていた。しかし、そこで相反することがどのような関係にあるのか、については必ずしも明らかとは言えなかった。分かりにくかった。つまり、それは結局のところ吉と凶、小さい大きのい、成る成らない、有る無いが、どのような関係にあるのかが不明確であったのである。およそ聖人はこうした「理」の働きを、大いなる道によるものとして、無為自然のままとしている。しかし、一般には私欲をして、これらに存している反対の「理」は「順」において、一方だけに偏って用いられる。つまり一つの方だけを起こそうとするのが「私欲」によるものなのである。しかし、大いなる道においては、必ず「逆」のことが起きて来る。「逆」のことが起きて来るからこそ、大いなる道といえるのである。そうした「順」「逆」の観点からすれば大いなる道の「理」も明らかとなろう。その変化の機も理解されよう。つまり、こうしたことを「微明」と言っているのである。老子はここで大いなる道が「微明」であることを教えている。とにもかくにも、この「微明」ということを悟ったならば、全てが明らかになり、収斂、拡散、弱い強い、衰退、興隆、奪ったり与えたりといったことにとらわれることもなくなるのである。 〈奥義伝開〉あらゆる物事には相反するものが含まれている、という老子の思想は「微明」なることの悟りによって得られたのであろう。強いものも見方を変えれば弱くなる、というのが老子の見出した「微明」である。それは一見しては知ることのできない反対のことを見ることの出来る視点でもある。この反対なるものの存在が時間を経ることで現れるという循環の視点は宋常星も示しているが「微明」という語からすれば、これは「同時」に起こっていることとするべきである。それは微かであるという意の「微明」の語が使われているように「認識」において生じていることなのである。「認識」を変えれば強いものも弱いものとして捉えることが可能となる。

宋常星『太上道徳経講義』(36ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(36ー5) もし奪うことを知ろうとするならば、必ず与えることが前提とされ(固)なければならない。 大いなる道の「理」とは「清浄無為」にあるのであるから、そこには本来的に奪うとか与えるとかいったものは存していない。しかし、一般には得ていないとか、持っていないといったことが重視される。人は、こうしたことの「順」の「理」は分かっているものの「逆」を知ることはない(つまり持っていなければ、それだけで完結して〈順〉そこに反対の持っているという状態が含まれている〈逆〉ことを知らない)。そうなると与えるにしても、奪うにしても、そこに害が生じることになる。つまり聖人のみが奪うべき時にはただ奪い、与えるべき時にはただは与えることができるのである。奪う時に奪うのであるから、それは奪うことで終わるのではない。奪うことの後には与えることになる。つまり奪うのは一時のことであって、最後には与えようとするわけである。例えば困難や困苦を奪って、後にゆとりや充分なものを与えるわけである。そうであるから、それは最後には与えるということになる。それを「もし奪うことを知ろうとするならば、必ず与えることが前提とされ(固)なければならない」と言っている。道を修する人は、よく与奪の「理」を知っておかなければならない。それは反対のことが起きるということである。今日、奪ったならば、必ず先には与えることが出来る。そうでなくただ奪うだけで与えることがないと思うならば、本当の意味で与えることの「理」が分かっていないということになる。 〈奥義伝開〉与奪の「理」は自然の「理」、大いなる道の「理」であるから人がそれを意識、意図することがなくても起こってしまう。人類の歴史においてあらゆる国家が滅びて来たのは、国家とはすなわち収奪のシステムであるからに他ならない。奪うことを主体とするシステムは自然に与えることを主体とするシステムへと移ろうとする。しかし、国家というシステムが、与えることを主として運営されたことはなかった。本来、国家はそうしたシステムを有していないからである。そこで奪う一方で与えることをも含むシステムが考えられて国家の延命がはかられたのが近代以降のことである。

宋常星『太上道徳経講義』(36ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(36ー4) もし衰退を知ろうとするならば、必ず興隆が前提とされ(固)なければならない。 天下のあらゆる事物は廃れることがあれば、必ず興ることがある。興ることがあれば、必ず廃れることがある。「興隆」それは「衰退」の始まりなのである。「衰退」とは「興隆」の兆しと言える。こうした「理」は循環しており、そこでは必ず次のものが生じることになる。聖人はこうした「理」をよく知っていて、勢いのあるところは必ず廃れることになることが分かっている。「強」さのないところで「興隆」は始まる。何事も起こらない「衰退」しているところは、次には反対に「興隆」が生まれる。「衰退」しているのは一時のことに過ぎない。また「興隆」が長く続いているところは、ここに「もし衰退を知ろうとするならば、必ず興隆が前提とされ(固)なければならない」とあるように、反対に「衰退」することになるものである。道を修しようとする人は、ここに述べられている興廃のように、次には反対のことが生じるという「理」をよく知らなければならない。現在「衰退」しているところは、将来には必ず「興隆」する。そうでないと考えるならば、興廃の「理」が分かっていないということになる。「興隆」には必ず「衰退」がつきものなのである。 〈奥義伝開〉ここも先と同じことを「衰退」と「興隆」において述べている。人は誰でも「興隆」を長く続けたいと思うものであるが、それは不可能なのである。あえて不可能を可能としようと無理をすると矛盾が生まれて、それが「衰退」を招くことになる。そして最後には大いなる破局に至り「革命」が起こされる。つまり「革命」とは「興隆」のことである。

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(4)

  道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(4) 八卦拳では「龍身(龍形)」を得ることで相手の変化に付いて行って攻撃ができるようになる。相手が右に避けたらそれを追いかけて攻撃ができるようになるのである。勿論、こうした攻撃は直線の軌跡によらないので、多少の力のロスは生じる。しかし、そうであっても当たらないよりは、当てる方が遥かに有効であると形意拳や八卦拳では考えるわけである。どのような威力のある攻撃でも当たらなければ全く意味がない。こうした身法は八卦拳では易に習って「体を分割する」ことで得られると教える。両儀(陰陽)から四象そして八卦となる易の理は、この世を分割して捉えようとするものである。八卦拳でも身体を「分割」することで、体の動きをより詳細に把握、操作できると考えている。

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(3)

  道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(3) 八卦拳では肘、膝を使うことができるようになって初めて「活」の段階に入ることができるとする。「活」とは実戦に使えるということである。またこの段階になると肘や膝も攻撃に有効に使えるようになる。これを八卦拳では十二転肘という。十二とは八方と上下、前後である。要するにあらゆる方向に肘を使うことができるわけである。ただ八卦拳では特に肘打を行うものとして肘を重視しているのではない。あくまで手首と肩に肘を加えることで、それを変化のポイントとさせることを意図している。つまり肘を使うことでネジリの動きが可能となるわけである。通常の手首と肩とでの攻撃は腕を一本の直線として使う。直線とすることで体から発する力を最も有効に拳へと伝えようとするわけである。しかし、こうした攻撃は一端、始まるとその軌跡を変えることはできない。そこで二打目を如何に早く出すかの工夫がなされることになる。また形意拳では梢節(手首)、中節(肘)、根節(肩)の三点を使えるようにすることで龍身が得られるとする秘訣がある。龍身とはこれら三節で折れている(分割されている)身体のことである。それは形意拳や八卦拳の構えを見れば如実に分かることでもある。

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(2)

  道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(2) 形意拳の「明・暗・化」の「化」も太極拳の「神明」や八卦拳の「変」と同じく心身が統一された状態を言っている。ただこの「化」については発勁、化勁、聴勁などという場合の「化」と、「明・暗・化」という場合の「化」の違いについての誤解がまま見受けられるようである。「化勁」は相手の攻撃してくる力を受けることのできる能力のことである。また発勁は攻撃できる力を発することのできる能力のこと、聴勁は相手の動きを知ることのできる能力のことである。ほかにもいろいろな武術的な能力のことを「〜勁」と称することがある。しかし「明・暗・化」の「化」はこうした個々の能力ではなく全般的なレベルを示すもので、心身の統一された状態をいうことは既に述べた通りである。形意拳では「明」で基本的な攻防の力を養う。これは一般的な武術各派とそれ程おおきな違いはない。八卦拳ではこの段階が基本となるので「定」とする(「定」には「まとまる」「さだまる」といった意味がある)。そして「暗」ではより細密な動きを練る。ここで言う「細密」とは内三合(心、意、力)、外三合(手、肘、肩 足、膝、胯)が協調して働いている状態のことである。