宋常星『太上道徳経講義』(36ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(36ー5)

もし奪うことを知ろうとするならば、必ず与えることが前提とされ(固)なければならない。

大いなる道の「理」とは「清浄無為」にあるのであるから、そこには本来的に奪うとか与えるとかいったものは存していない。しかし、一般には得ていないとか、持っていないといったことが重視される。人は、こうしたことの「順」の「理」は分かっているものの「逆」を知ることはない(つまり持っていなければ、それだけで完結して〈順〉そこに反対の持っているという状態が含まれている〈逆〉ことを知らない)。そうなると与えるにしても、奪うにしても、そこに害が生じることになる。つまり聖人のみが奪うべき時にはただ奪い、与えるべき時にはただは与えることができるのである。奪う時に奪うのであるから、それは奪うことで終わるのではない。奪うことの後には与えることになる。つまり奪うのは一時のことであって、最後には与えようとするわけである。例えば困難や困苦を奪って、後にゆとりや充分なものを与えるわけである。そうであるから、それは最後には与えるということになる。それを「もし奪うことを知ろうとするならば、必ず与えることが前提とされ(固)なければならない」と言っている。道を修する人は、よく与奪の「理」を知っておかなければならない。それは反対のことが起きるということである。今日、奪ったならば、必ず先には与えることが出来る。そうでなくただ奪うだけで与えることがないと思うならば、本当の意味で与えることの「理」が分かっていないということになる。


〈奥義伝開〉与奪の「理」は自然の「理」、大いなる道の「理」であるから人がそれを意識、意図することがなくても起こってしまう。人類の歴史においてあらゆる国家が滅びて来たのは、国家とはすなわち収奪のシステムであるからに他ならない。奪うことを主体とするシステムは自然に与えることを主体とするシステムへと移ろうとする。しかし、国家というシステムが、与えることを主として運営されたことはなかった。本来、国家はそうしたシステムを有していないからである。そこで奪う一方で与えることをも含むシステムが考えられて国家の延命がはかられたのが近代以降のことである。


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