宋常星『太上道徳経講義』(36ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(36ー6)

こうしたことを「微明」という。

この一節では、これまでのことが総括されている。これまで例えとして収斂や拡散、弱いことや強いこと、衰退や興隆、奪うことや与えることといった事例が挙げれて来ており、そこでの「理」も明らかにされていた。しかし、そこで相反することがどのような関係にあるのか、については必ずしも明らかとは言えなかった。分かりにくかった。つまり、それは結局のところ吉と凶、小さい大きのい、成る成らない、有る無いが、どのような関係にあるのかが不明確であったのである。およそ聖人はこうした「理」の働きを、大いなる道によるものとして、無為自然のままとしている。しかし、一般には私欲をして、これらに存している反対の「理」は「順」において、一方だけに偏って用いられる。つまり一つの方だけを起こそうとするのが「私欲」によるものなのである。しかし、大いなる道においては、必ず「逆」のことが起きて来る。「逆」のことが起きて来るからこそ、大いなる道といえるのである。そうした「順」「逆」の観点からすれば大いなる道の「理」も明らかとなろう。その変化の機も理解されよう。つまり、こうしたことを「微明」と言っているのである。老子はここで大いなる道が「微明」であることを教えている。とにもかくにも、この「微明」ということを悟ったならば、全てが明らかになり、収斂、拡散、弱い強い、衰退、興隆、奪ったり与えたりといったことにとらわれることもなくなるのである。


〈奥義伝開〉あらゆる物事には相反するものが含まれている、という老子の思想は「微明」なることの悟りによって得られたのであろう。強いものも見方を変えれば弱くなる、というのが老子の見出した「微明」である。それは一見しては知ることのできない反対のことを見ることの出来る視点でもある。この反対なるものの存在が時間を経ることで現れるという循環の視点は宋常星も示しているが「微明」という語からすれば、これは「同時」に起こっていることとするべきである。それは微かであるという意の「微明」の語が使われているように「認識」において生じていることなのである。「認識」を変えれば強いものも弱いものとして捉えることが可能となる。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)