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宋常星『太上道徳経講義」(10ー7)

  宋常星『太上道徳経講義」(10ー7) 四達、明白なれば、よく無知たらんや。 「明」とは、心の慈しみの光(内光慈照)で、これを「明」という。「白」とは、心の本質のこと(本体素存)で、これを「白」といっている。これは「虚」により「光」を発するということであり、「静」から「白」を生むことである。虚静明白とは、まさに四方に光が発する(明白四達)ことである。「四達」とは、何ら阻むものがなく通っているということで、「無知」は感情や意識がないということとなり、落ち着いて静かな純一の妙がここには存している。人の心の本体は虚明であり、本来が清らかであるが、物欲によってそれが見られなくなってしまう。このように本来の心の働きが抑制さている状態では「明白」さを保つことはできない。ただ聖人だけが「虚明」で「円明」であるのであり、そうした「聡明」である「明」がここには存している。見ることがなく、聞くこともない。為すこともなく、欲することもない。こうした中に「空明」の境地を感じ、それに通じる。こうした境地を体験するのが「明」である。知ることは極まりない。そうであるから常に愚かであるようにしている。ある程度のことは知ってはいるが、知らないことも多いのが普通である、それが「無知」ということである。また知らないことがないと思っている人はは、つまりは「無知」でもある。そうであるから「あらゆるところに通じているとは、知る必要のあることをもれなく知っているが、必要のないことは知らないということである(四達、明白なれば、よく無知たらんや)」としている。 〈奥義電開〉情報はそれが過度にあっても使えない。老子は最小限の情報だけを得るようにしなければならないとする。たとえば死後の世界や神などは、その存在が明らかではないが、それを必要とする人にはそうした情報が求めれれるべきあるが、それがなくても良い人はあえてそうした不確かなものについては「無知」であって良いと教えるのである。つまり老子は「それが本当に必要な情報であるのかよくよく吟味せよ」と言っているわけなのである。

宋常星「太上道徳経講義』(10ー6)

  宋常星「太上道徳経講義』(10ー6) 天門、開ガイすれば、よく雌となるや。 「天門」は「人心」ということである。「人心」は体全体を統御している。そうであるから「天門」といっている。「開ガイ(開閉のこと)」は「陰陽」であり「動静」である。「雌」は「安静」「柔弱」を意味する。人の心の「竅(あな)」からは「出入」「動静」といった変化を出すことが可能であろうか。「安静」「柔弱」といったものを出して、その道によって一切のことに対応することが可能であろうか。どのような時であっても、無心であればそれに応じることができる。静である時も、無心であれば自ずからそれを受け入れて静となることができる。これが「天地の門の開け閉め(開ガイ)を知る」ということであるが、すべては自然の妙であり、そうであるから聖人はただ内面を見つめる(内照円明)だけで、物事が生じても「理」によって適切に対応できるのである。むりに陽をして陰に勝たせるようなことはせず、感情によって「性(本来の心)」を傷つけるようなこともしない。物欲に迷うことなく、流されることもない。そうであるから「性」は傷つけられることなく、心の乱れることもない。気は志を迷わせることもない。これがつまりは聖人の天門の開け閉めなのであり、外からの影響を受け入れるがそれが不適切なものであれば流されることのない「雌」の妙なのである。何時、人心が外からの影響を受け、それに反応する「出入り」をするか分からないと、動静は一致せず、物事へのこだわりが生まれて、私欲が生まれることになる。喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲といった七情の迷いが興るわけである。何かを感じて感情は発せられる。修道をする人は、すべてはこのところをよく分からなければならない。私欲といった不適切な感情(陰情)に負けてはならない。つまり「心の門が外界に対して開いたり閉じたりしていて、その影響を受けるがそれに流されることはない(天門、開ガイすれば、よく雌となるや)」ということが大切なのである。 〈奥義伝開〉「天門」とは頭のことで、そこに穴(眼や耳、鼻、口)があって、そこを通して我々は外界の影響を受ける(宋常星はこれらを通した先で情報を受け入る「心」を「門」とする)が、その門は開いているべき時もあれば、閉じているべき時もある。それを適切に行うようにしなければならない、というのである。そのためにはい...

宋常星『太上道徳経講義』(10ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(10ー5) 民を愛し国を治めるは、よく為すこと無からんや。 ここでは無為の道が説かれている。民を愛し国を治めることの意味を明らかにするならば、それはまさに自然に順ずるということである。民を愛して国を治めるということは自然の状態のままである、ということであるから、必ずしもそれを意図して行ってはならないのである。もし意図的に民を愛しようとするならば、そうした愛はどこかに偏りが生まれてしまうものである。そうした状態で国を治めようとしても、その統治はあまねく万民に行き渡らない。ただ聖人は「民を愛する」などということを語ることはないが、それを身をもって天下に実行して教えている。無為の道をして、万民の心の変化を促すのである。これによって天下万民は、日々国を治める者の愛を受けてはいるがそれに気づくことはない。日々安穏な生活を送っているがそれが無為の統治によるものであることを知ることはない。人々に知られることも、気づかれることもない。これこそが聖人の道徳なのであるが、それを天下の人々は知ることがない。具体的な統治の方法として見ることができないが、無為にして人々の心は自然に変化をし、特別なことをしなくても民は自然に豊かになり、そう望まなくても民は自然に過度な欲望を持つことがなくなる。そうであるから「民を愛して国が治まるとは、特段に行うべきことをしないことなのである(民を愛し国を治めるは、よく為すこと無からんや)」としているのである。 〈奥義伝開〉本来、自然のままであれば「秩序」は完全に保たれている。これは天の星々の運行を見れば明らかである、とするのが老子などの「道」や「天」の働きが存するという考え方の基本である。民を愛するのは君主の基本であるが、それは「自然」のままであるべきで、特別なことをしないことが重要であるとする。つまり税金などと称する収奪などしなければそれはそのまま「愛」の実践となるわけである。そればかりではない「国を愛し、民を愛するが故にこの戦いに勝利して」などと言って「愛」を押し付けて命まで「収奪」しようとする権力者は実に多い。そうであるから「よく為すこと無からんや」と、余計なことはとにかくしないでくれ、と言っているのである。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(4)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(4) 「前提」を設けることは武術の稽古における必然でもあるのであるが、あまりに「前提」にこだわり過ぎると「技」としての真実性が失われてしまうことになる。一定の「技」で相手を少し崩すことができたとして、それがややバランスを失う程度であるのか、投げられてしあう程度であるのかは、正しく範囲が限定されなければならない。そうでなければ練習している「技」そのものの価値が失われることになってしまう。そうなると自分の実力も分からなくなるし、相手の実力も見えなくなってしまう。それは相手の力を見抜く基準が自己にあるからに他ならない。自分の力がよく分かっていて、それより「強いか」「弱いか」が判断の基準となるからである。こうして正しく「技」が稽古されなければ、実戦において重要な「体力」を正しく得ることもできないし、「時術」を練ることもできないし、「運命」に関してもおかしな考え方を持って、迷信におちいるようにもなりかねない。孫子も自己を知ること、相手を知ることが実戦で失敗しない原点であると教えている。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(3)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(3) マジシャンの演出する「不思議」は見る側の「思い込み」を確定することによって演出される。つまり右手なら「右手にカードがある」という「前提」が継続されることで、最後に左手にカードが移動していれば見る側に「不思議」と受け取られることになるわけである。上達法を説く古武術の師範も同様に「前提」の確定にひじょうにこだわっている。何度も同じ動作を繰り返して「前提」を作った上で、それとは別の動きをする。そうすることで、「不思議」を演出している。この場合で重要なことは等しく「前提」が継続されていると相手には思わせることであるから、いきなり技を行うことはしない。しかし実戦においてはこうした「前提」を設定する暇はない。相手はいきなり攻撃して来る。「前提」を設けての稽古は形稽古がその典型であるが、人の体は手足などの可動範囲が一定であるので、それに対する最も合理的な攻防の動きというものが当然に存している。それを学ぶには「前提」を設けて場面、場面に分けて体の使い方を練習をする以外にはないのも事実なのである。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(2)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(2) さて武術における「実戦」性が「体力」「技術」「運命」によって成り立っていることは前回に述べたが、「運命」についてもかつてはなんとかそれを制御しようとして、神仏に祈る法が武術の一部とされていたこともあった。近世にはこうした「迷信」を最高の伝授とする巻物も多く作られている。しかし、こうした「迷信」に頼るよりは、相手を思いやる気持ちを常に持って敵を作らないようにした方が、はるかに有効であることを忘れるべきではなかろう。それはともかく武術における「実戦」性を考える上で具体的に最も大きな関心が寄せられるのが「技術」であることはまちがいのないことである。おもしろいことに現在、古武術の「技術」を解明していることで有名な師範の動きを見ると、通常の武術家のそれとは大きく雰囲気が違っていることに気づく。よくよく考えて見ると、それはマジシャンの動きにそっくりなのである。マジシャンは、カードならカードを、実際に持っている腕は何も持っていないように見せて(筋肉が緊張していないように見せる)、実はカードを持っていない腕はあたかもカードを持っているように見せる(筋肉が緊張しているように見せる)。こうした見る側の視覚を通した「思い込み」の違いを誘うことで「不思議」を演出するのである。くだんの師範も、力を入れていないと見せてそこには力が入っており、入れていると見せて入れていない。そうであるから技を受ける方は、その意外性に驚くことになる。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(1)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(1) 武術を練習している人にとっては、その濃淡はあっても「実戦」性をまったく考えない人はあるまい。つまり武術における「実戦」性とは、何らかの「技術」によるもので、それは通常の力を使った場合よりも大きな効果を得るものでなければならない。相手を投げるという行為は、その形が同じであれば、それが力任せであっても、精緻な技法を駆使したものであってもダメージとしては何ら変わりのないものである。また武術における技術の「力」は無限ではない。技法をいくら駆使しても、基本的な体力にあまりに大きな差があれば、それを凌駕することはできない。いわゆる「蛮力」に負けてしまうこともあるのである。また戦場などでは純粋な攻防の力の優劣以外に「運」のようなものもおおきく関係して来る。これは日常における実戦でも、何時襲われるか分からないということでは同様なことがいえよう。こうして見ると武術における「実戦」性とは「体力」「技術」「運命」の三つの要素が関係していることが分かる。その中で個々人が練習して習得できるのは「体力」と「技術」の部分に限られる。これが武術における「体」と「用」である。