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道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(1)

  道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(1) 太極拳は張三豊の頃には十三勢と称していたとされている。十三勢とは「四正、四隅、五歩」によって構成されるシステムの称である。この秘訣を見出したことで張三豊の拳は卓越したものとなった。これを後に王宗岳が出て太極拳と命名したようである。王宗岳の「太極拳論」では十三勢に動静、陰陽のあることが見出されている。それによりこれを「太極拳」としたのであった。そこで四正や四隅、五歩などにも陰陽のような「対の関係」を見ようとする傾向が生まれる。例えば「ホウ、リ、擠、按」であれば「ホウとリ」を「斜め上への崩し」と「斜め下への崩し」と解する。そうなると「擠」は前に推すで、「按」は後に推すとしたいところであるが、後に推すとしたのでは武術的な意味が見出し難い。そこでこれを「片手で推す」のと「両手で推す」として解しようとすることもある。しかし、これも「擠」は両手を使っているではないかとされる。そこで、一方の手を補助としなければならなくなる。「対の関係」としての理論が成り立たなくなるわけである。五歩は「前、後、右眄、左顧、中定」で「前に進む」と「後ろに退く」は「対の関係」である。また「右眄、左顧」は「右への転身」と「左への転身」でこれも「対の関係」である。しかし五歩においても「中定」には「対の関係」を見出すことができない。

第五十八章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第五十八章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 「正」しきをもって国を治める。「無事(無為に同じ)」をして天下を取る。つまり「世辞が適切に行われなければ(その政、悶悶たれば)」つまりは「その国の民は本来、自然のままで居る(その民、淳淳たる)」ようになるのであり、これは真の意味で「政治」が働いていないということではない。「知」をもって国を治める。「有事」をして天下を治める。これは「政治が細かなところまで及ぶ(その政、察察たれば)」ということである。そうなれば「民は満足をするのではなく不足を言う(その民、欠欠たる)」ということになるのであって、民は全く素樸のままで居られるわけではない。それはどうしてか。それは時には終始があるからである。世には変化があるからである。好ましくないこともあれば、好ましいこともある。好ましくないことは、世に「禍」と謂われる。好ましいことは、つまり「福のよるところ」となる。好ましいことは、世は「福」と謂われる。しかし、好ましくないことはつまりは禍のよるところとなるものである。そうであるのであるが、どのようにして禍福が来るに至るのか、その禍なり福なりが最高に達して次に転換するその「極」みを知ることはできない。そうであるからどうして禍福の来る時期を知ることができようか。或いは今は正しいとされることでも、後に一方で邪とされることもある。また、こちらでは邪であるとされても、あちらではまた正しいとされることもある。善と妖もまた同じであって、つまりは天下の禍福、正邪、善妖は、結局はどうしてそうなるのかは分からない。人々はそれが来たってそうであると知るだけである。そして、わけも分からず現状に執着する。「この状態が永遠にに続く(その日もとより久し)」と考えるのである。そうであるのであるが、どうしてこうしたことを重んじて「察察」たる細かな政治をする必要があろうか。それは細かなコントロールをして(察察)、その極みを迎えたなら反転して民は純朴に返る、ということはないからである。そうであるから聖人は「一連のものを分け断つことはしない(方にして割かず)」のである。つまり、一人で制度を決めて天下を利しようとはしないのである。「慎ましやかであるが過度にはならない(廉(つつまし)くしてけずらず)」のであるから物に過度に執着することないし、物を過度に拒否することもないの...

第五十八章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第五十八章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 その政(まつりごと)、悶悶たれば、その民、淳淳(じゅんじゅん)たる。 〔政府が円滑に働いていなければ、民はそれぞれ暮らしを立てようとする〕 「悶悶」とは何でも明らかに知ろうとはしないことである。「淳淳」とは自分で楽しむことである。 その政、察察たれば、その民、欠欠たる。 〔政治が細かなところまで民の生活を世話しようとしても、民は決して満足することなく不足を言うものである〕 「察察」とは面倒なことをしないということである。「欠欠」とは足らないということである。 禍は福のよるところ。福は禍の伏するところ。いずくにかその極まるに、その正しきの無きを知らんや。 〔禍があれば、次には福が訪れる。福があればそこには禍が隠れているものである。禍であっても、福であっても、それを極めて禍だけ、福だけの状態を求めようとしても、それはできるものではない。つまり正しい考えではないのである〕 禍福には常が無い。誰が禍福がどこで極まり止まるか、を知っていようか。「正」とは定まるということである。禍福というものは、どうしても自ずからそうなってしまう(定まってしまう)ものなのである。 正しきは復して奇となり、善しきは復して妖となる。 〔普遍的に正しいとされることも、ある場合には特殊な範囲でのみ認められるだけのこともある。一般には善いことであっても、ある場合には災とされることもある〕 「奇」とは邪ということである。邪であることでも「正」しいとされることがあるし、「正」しいとされることも「邪」とされることがある。「善」なることも「妖」とされることがあるし、「妖」とされることも「善」とされることがある。これは「禍福」が「より」「伏する」という深い関係性においても同様な互換が成り立つのである。 人これ迷うなり。その日もとより久し。 〔ひとつの状態が永遠に続くことがないので人は迷うのである。一定の状態が続く日は長くはない〕 人は自分が迷っていることすら知らない。そうして間違った判断を下してしまう。これはその日に限ったことではない(何時ものことである)。 これをもって聖人は、方(なら)べて割かず。 〔そうであるから聖人は、並び連なってでいるものを、あえて断ち分かとうとはしない。それは自然に分かたれるからである〕 「割」とは削るということである。方正であって...

道徳武芸研究 大中小架と梢中根節(6)

  道徳武芸研究 大中小架と梢中根節(6) 套路における小、中、大架は、実は梢、中、根節を中心に動くことを意味していたのであり、そこには鍛錬法として重要な秘訣があった。これらを特徴のある形意拳、八卦掌、太極拳をして練っても良いのであるが、もちろん個々の門派においても三節を練ることは可能で、套路において三節を練る場合には意識のポイントを梢節であれば手首に、中節は肘、根節は肩に措く必要がある。蟷螂拳は基本は梢節の動きであるが、八肘では中節、短捶では根節の動きを練ることができる。また太極拳は套路の基本は根節の動きであるので、梢節や中節の動きは推手でこれを練る。片手で行う単推手は「採」を、肘を触れて行う揉肘は中節である。ちなみに四正、四隅の推手では根節を練っているそれぞれの門派において基本となる節の鍛錬法は比較的容易に習うことができるが、それ以外は秘伝としてなかなか知ることが難しい。秘伝が秘伝となっている理由のほとんどが、この三節の視点を持てば理解可能となる。

道徳武芸研究 大中小架と梢中根節(5)

  道徳武芸研究 大中小架と梢中根節(5) 太極拳では四正、四隅の字訣により梢、中、根節を練ることができるのであるが、これらをその特色を有する別の拳で練ることもできる。つまり形意拳、八卦掌、太極拳が共に練習されるようになったのは、これら三拳が三節を練るのに適しているからに他ならない。こうしたことがあるために三拳を共に習うことには合理性が認められ、広く受け入れられているのである。形意拳では、拳を中心に腕をねじる(翻)ことで、力を集中させる(讃)。そうであるから形意拳の動きは拳(梢節)を体が追うような感じになる。八卦掌は中節つまり肘を中心に用いるので十二転肘などが套路の動きに含まれている。肘を中心に動くことで転身などの動きの勢いを容易に得ることができる。太極拳は根節で体当たり(靠)を行う。これは八極拳などの貼山靠と同じようなものであるが、太極拳の「靠」と八極拳のそれとは方法が違っている。体当たりが実戦に際して有効であることは意外に知られていない。鄭曼青は太極拳の「靠」の秘伝の練習法を公開しているが、それは鄭曼青が太極拳の本来の動きは根節にあると考えていたからで、新架(澄甫架)で師の楊澄甫が強調した坐掌などは廃してしまった。

第五十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第五十七章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では治国のことが述べられている。治国は永遠に続くものでなければならない。そうであるから正統的なもの(正)であらねばならず、変速的なもの(奇)であってはならないのである。正しいとは万世の基準となるようなことである。用兵はどうしようもない時でなければ使ってはならない。そうであるから変則的なもの(奇)であっても構わないのであり、正統的なもの(正)である必要はないのである。変則的とは、その時その時で変化をするということである。治国とは、国に福をもたらすものであることを知らなければならない。それは知の及ぶところではない。そうであるから「無事」をして天下を取るとしている。これは疑いもないこであろうが、それではどうして私は「無事」をして天下を取ることができることを知っているのか。それは「有事」をしては天下を取ることができないことの正しいことを知っているからである。それは「無為」であるということである。初めは「無為」であっても、次第に「有事」に至るようになれば、天下に規制(忌諱)が多くなる。そうなれば、人々は規制に違反することを避けようとする。結果として失業者が多くなる。失業者が多くなれば人々はますます貧しくなる。また人が謀略(利器)を企んで、どうにかして自分のやりたいことをしようとするようになると、統治者は民情を知ることができなくなってしまう。こうなると国家の状態はますます渾沌とした(昏)ものとなる。民は貧しくなればなるほど、なんとかして利を得ようとするものである。そうなるとますます国家は渾沌としたもの(昏)となろう。そうなれば、また不必要な物(奇物)がどんどん生まれて(なんとかしてそのような不要な物を売って生活をしようとする者が出て)くるようになる。こうしたことは法令が細かになるにつれて違反者が出てくることになる。一方で法令によっていくら規制をしようとしても、法令によっては全てを禁ずることなどできるものではない。法令が実行されるのはそれを守ろうとする人がいるところのみである。およそ法令を守ろうとする人が居ないところでは法令は実効力を失う。そうしたところには盗賊も多くなる。もしこうしたことがあったとすれば、それは「有事」をして天下を取ったことの弊害といえよう。そうであるから聖人は「自分が無為であるから民は自ずから化す...

第五十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第五十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 正しきをもって国を治め、奇(く)しきをもって兵を用いる。 〔国を治めるには皆が等しく「正しい」と思えることをもってするべきである。一方、軍隊を使う時には思いもよらない方法が用いられるべきである〕 聖人は柔や得難いもの(遠)によく近づくことができる。そして無意にして兵を起こし、その後に征討を行う。そうであるから国を治めるのは必ず「正」もって行い、兵を用いるのは「奇」をもって行うのである。 無事をもって天下を取る。 〔一国だけではなく全世界の調和を得ようとするならば、余計なことはしないこでおくことである〕 こだわりの無い心で、あえて事を行うことなければ、天下は自ずから帰する。 吾、何をもって天下の然るを知るや。 〔私はどうして全世界の調和を保つには余計なことをしないのが良いと知っているのか〕 「吾」はどうして「無事」にして、天下を取るのに充分であることを知っているのか。以下に「有事」の弊害をあげていることをして(その反対が正しいと判断して)知ることができているのである。 天下に忌諱多くして、民いよいよ貧し。 〔それは全世界において規制が多くなれば、民は活力を失い経済活動も勢いを失ってしまうことを知っているからである〕 上からの禁止が多ければ、下では民情が抑圧されて上に届くことはない。つまり民が貧しても上に伝わることがないのである。 民に利器多ければ、国家ますます昏(く)らし。 〔人々が便利な道具を持つようになれば、社会は複雑となり国家は人々を統治することがますます困難になることを知っているからである〕 「利器」とは、権謀ということである。聖人は上にあれば常に民をして無知、無欲であるようにさせる。民が多く権謀を使うようであれば、上に立つ者は幻惑されて民情を知ること昏くなってしまう。 人に技巧多ければ、奇物いよいよ起こる。 〔優れた技術が開発されればされる程、それを使って必要のないものが生産され、無駄な浪費が多くなることを知っているからである〕 人々が本業に務めることなく、ろくでもないことに熱心になる。そうなれば無益なものばかりが作られるようになる。 法令いよいよ章(あき)らかにして、盗賊多く有る。 〔法令が細かなところまで規定してしまうと、それに違反する人も多くなって「盗賊」などとされてしまうことを知っているからである...