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外伝10孫禄堂の「道芸」研究(15)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(15) 回縮勁(白鵞亮翅学) 回縮勁とは腕を回すことで自然に蓄勁が得られることをいう。太極拳には乱環訣があるが、それはこの回縮勁のことでもある。回縮勁は「用意」において行われる。腕を回すという意図的な動きを使うことで勁の蓄えがなされるわけである。この状態を孫禄堂は「自然穏住」とする。穏やかな状態にあるということで、この穏やかさが「綿綿」とされる状態であることはいうまでもあるまい。またこうした「環」の流れに乗せて勁が発せられる。これを「神秘」と『太極拳学』では評している。「心中虚静」「空空洞洞」とした境地のまま蓄勁、発勁が行われるところに太極拳の「神妙」があるが、それを実現させるのは回縮勁にある。

外伝10孫禄堂の「道芸」研究(14)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(14) 一気貫串(提手上勢学) これは太極拳の拳訣である「綿綿不断」と関係している。「綿綿」については前回に触れた。鬆開を得ることで「綿綿」が得られるのであるが、「不断」とは気の流れ、意識が途切れることのないことである。これを「一気貫串」と称する。孫家では単鞭の「開」から提手上勢の「合」に移ることで気を下丹田に鎮める。これは呉家も同様である。一方、楊家は両腕を上げて腰を引くことで気を鎮める。ここで孫禄堂は意図的に気を下丹田に押し込めようとする「圧力」を加えてはならないとする。「圧力」ではなく「神を以て貫注」するわけであり、これは形を繰り返すことによって、意識と動作が同調するようになると自然に気の集中が得られることをいっている。孫家は特に体の中心軸に気を集めるような形となるが、これは形意拳の束身に近いといえよう。

外伝10孫禄堂の「道芸」研究(13)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(13) 鬆開(単鞭学) 『太極拳学』ではこれを「綿綿として存するが如し」とある老子の教えのことであるとする。孫家の単鞭は馬歩で掌を左右に開く。馬歩であるのは呉家と同様であるが、呉家では掌と釣手の形を残している。鄭曼青も単鞭を「開」としており、提手上勢(手揮琵琶)を「合」とする。いずれにしても単鞭は「開」の動きであることに変わりはない。鬆開はつまり「開」の動きであるのであるが、孫禄堂は両肩、両腿(股関節)を「鬆開」するという。そうすると「腹」が鬆開となり、気が下丹田へと鎮まることになる。こうした状態となると「柔」が開かれる。この状態を「綿綿」とする。鬆開は太極拳のあらゆる動作で行われていることであり、「綿綿」もすべてに通じるものであることは言うまでもあるまい。

外伝10孫禄堂の「道芸」研究(12)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(12) 手足ジュウ転(合手学) 孫家では合手の動作の時に手足にネジリ(ジュウ転)を加える(ジュウは「紐」の糸篇が手篇の字)。ただ実際の太極拳の動きではネジリは明確ではないが、次の動きに移る時に両掌を合わせたまま左右から上下に入れ替えたりする時にネジリの動きを認めることができる。こうしたネジリは八卦拳の影響によるものであろう。八卦拳では「縮=合」の時に必ずネジリを加える。これにより腕の経絡が開くとされる。

外伝10孫禄堂の「道芸」研究(11)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(11) 「内中外放」(開手学) 立てた両掌を合わせ(合手)て広げる(開手)のは孫家太極拳で特徴的な動作とされ、孫家は開合太極拳といわれることもある。掌を広げた時に「内」には「中」を保つと同時に「外」には気が放たれるような感じを持つ。太極拳は勁を発する時の拳訣に「含胸抜背」があるが、これを行うには先ずは胸を開いておかなければならない。孫家では「開手」で胸を開いてから次に「合手」を練るが、それはそのまま発勁の練習になっているわけである。

外伝10孫禄堂の「道芸」研究(10)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(10) 「縮勁」(懶扎衣学) 縮勁は八卦拳でよくいわれるもので、八卦拳では縮伸を重視する。孫禄堂は両肩、両腿に「裏根縮勁」するとしている。「裏根」とは肩や足の付け根で、それが縮まるような感じになる。この時に重要なことは「用意不用力」である。「意」を用いて、「(拙)力」を用いないのであるが、腕を引いた時に「縮勁」となる。「用意不用力」は太極拳でよくいわれる拳訣であるが、これが「縮勁」を促すものであることを知らなければならない。つまり「縮」とは体が縮まるというイメージによって得られるということである。

外伝10孫禄堂の「道芸」研究(9)

  外伝10孫禄堂の「道芸」研究(9) 「腹内虚空」(懶扎衣学) それでは孫禄堂の『太極拳学』を見てみることとしよう。初めは懶扎衣学にある「腹内虚空」である。これには「鬆浄」のことであるとの注がついている。つまり腹内虚空とは腹内鬆浄と同じであるということになる。八卦拳では胸、足心、掌心が「空」であるとするが、腹が虚であるとはしない。『太極拳学』には腹内虚空に続いて次のような注が見られる。それは「古人云う。腹内鬆浄たれば気騰然す。尾閭正中たれば神貫頂す。満身軽利たれば頂頭懸たり」であり、腹内鬆浄であれば気が活性化(気騰然)するし、それは左右前後に体が偏ることのない尾閭正中でもある。そうであるからまた気が活性化して背骨を頭頂まで貫く(神貫頂)のである。こうして気が活性化されると軽やかな動きが可能となる(満身軽利)。つまりこれは頭の頂きから糸で吊るされているような感じ(頭頂懸)になるわけである。