鄭環『老子本義』(八章 九章)台灣ドラマ「女鬼観音見習生」と「鬼」信仰
鄭環『老子本義』(八章 九章)台灣ドラマ「女鬼観音見習生」と「鬼」信仰
中国語で「鬼」とは「ゴースト」のことである。昔「ゴースト ニューヨークの幻」という映画があったが、これは中国では「鬼」となる。この映画は殺された若い男が「ゴースト」で、これは日本でいうなら「不成仏霊」である。この霊は最後には天国へと行くことになっている。
「女鬼観音見習生」は2023年に放送された台灣語のドラマ(現在、Youtubeで見ることができる)で、ここでの「女鬼」は入水自殺した女の地縛霊である。鬼(鬼神)は狭くは先祖の霊のことであるが、これが広く死者の霊をいうこともある。つまり「鬼」は亡くなった「人」の霊で、動物霊などは入らない。おもしろいことに理工学を深く研究した墨子も鬼神の存在を信じていた。合理的な思考に優れている墨子が鬼神のようなものを信じるのは不思議なようでもあるが、世の中に不思議な現象があることを考えると「鬼神」のようなもののあることを考えざるを得ない、というのが墨子の思考であった。今から2500年も前の人であるから限界があるのは仕方のないことであろう。
「女鬼観音見習生」では、閻魔大王の計らいで「女仙(女の仙人)」となれる機会を与えられる。その条件が課せられた観音行(菩薩行)をするというものであった。このように「鬼」には単に成仏するだけではなく、仙人になる、という道もあったのである。成仏してしまえば、この世との関係は絶たれてしまうが、仙人になればこの世に存在し続けることもできる。呂洞賓などの仙人は今もこの世にあって「出会う」人も少なくない。日本ではこうしたことは余り聞かないが、四国では空海に出会うことができるとされている。それは巡礼を逆に巡ると出会えるという。空海は順番に遍路を巡っているとされているので、反対に巡っていると何時かは空海と出会うことになるとされているわけである。
最近に公開された「軍服を着た神様」は、台灣で日本兵が神として祀られている事例を紹介している。こうしたことは50ほどにわたって見ることができるという。これらも「鬼」が「仙」となっているとすることができよう。他にも安倍晋三が祀られていたりする事例もあるが、これは暗殺と関係があるようで、不幸な死に方をしてしまった人の魂が安らかで居られない、という想いがベースとしてあるようである。
「女鬼観音見習生」では、右往左往があって結局は全てが良く収まることになるのであるが、これはホームドラマの定番と言えようか。おもしろいのは舞台となっているのが金門島であることで、同じく金門島を舞台にしたドラマは他にもいくつも作られているようである。金門島は現在では観光地として有名であるが、かつては中共軍との対立の最前線であった。そうしたこともあって砲弾の鉄を包丁に加工した土産物もある。また古くは白酒でも知られている。
『老子本義』(【】は注釈部分)
八章
上善は水のようである。
水は万物を利して、しかも争う処がなく、
【「水」を「善」としているテキストもある。また「処」を「居」としてあるテキストもある】
多くの人の嫌うところにも居る。
【匡晋カクは「人は剛を好むが、水は至柔である。人は上を好むが、水は下にも居る。下に居ることは、多くの人の嫌うところでもある」としている。一般的には「下」に居ることを好む人の居ないのは、それを嫌うからである】
そうであるから道は善地にあるのであり、心は善淵にある。
善仁は善信である。政治が善く治って(善治)いれば、事は善く成し遂げられ(善能)、動きも適宜である(善時)。それはただ争わないということであり、間違いのないところでもある。
【この章も前の章を受けて述べられている。その身を後にする、その身を外にするということである。これは生きる上での道である。自然に生まれるものではないものが道から遠く外れているのは、当然のことである。そしてこうしたところには争いが生じる。争いは(道を外れて)物を重視するところに生じる。そこでは物の価値を下に置く(軽視する)ことはない。争うことがなければ、物を得ることはできないと思うわけである。物を独占しようとするなら争いは免れないわけである。それは自分が中心であろう(先)とすることでもある。これらにはすべからく善の考え方からすれば道と合致していないものである。
(1)善が重視するのは水のような状態である。(2)そうであるから道は「天下の渓」たる善地にある。(3)それは「小魚を烹る」のと同じであり、(4)善い政治(善治)である。(5)無為であるが行うべきことは全て行われる。(6)それが善能である。(7)あえて天下の先とならないのが善時である。これら七つは全て万物を利して争うことがない、ということである。そうであるから道は間違えることがないわけである】
九章
持てるだけ持とうとするのは止めておいた方が良い。
【「持」とは「謀を持つ」ということである。司馬君実は「恃(たのむ)」という字にしている】
鋭くあるようにしよう(揣)としても、
【「揣(し)」は「揣摩(しま 考える)」ということである】
その状態を長く保つことはできないものである。
【鋭い物で突き刺すのは、そうしようと思わなければできない。あるテキストでは「鋭」を木偏のエイにしている。これは音が同じであるからである。あるいは「揣」を手偏ではなく支篇にしているものもあるが、これも音が同じであるからである。意味は「しようとする」で同じとなる。音は違っているが意味は同じということで「鋭」を「ガイ(豈に支)」や「ガイ(白に豈)としているものもあるが、河上公本での「鋭」を「長」としているのと同じく不適切である】
金や玉が家(堂)に満ちているような状態はこれを保つことは難しい。
【「堂」を「室」としているテキストもある】
財産に富んでいることを驕っていると、自然に非難を得てしまうものである。
【蘇軾本には「驕」を「さんずい」の字としている(これは人名に用いられるで一般的ではない)】
功成り名を遂げても、自分を主張することがないのが天の道なのである。
【注釈の中には「遂」を「成」としているものもあるが誤りである。王弼本では「功を遂げて身を退く」とある】
【この章も前を受けて「争わない」ということを述べている。満ちているものは減るし、鋭いものは鈍るものである。必ず、こうしたことは知っておくべきである。欲望を満たそうとしても切りがない。適度であるようにするべきである。もし、欲望が適切でないならば、行き過ぎたものとなることであろう。鋭さも過度であれば刃毀れしやすいし、傲慢になると失敗をしてしまうものである。そうであるから余りに鋭いのは好ましくないのである。鋭さは長くそれを保つことはできない。それと同じく傲慢であり続けることもできないのである。つまり天の道は過剰であることを忌むのであり、過度な鋭さを求めるのは適当ではないわけである。どのような時であっても、自分の成功にこだわることがあってはならない。これは全ての人に言えることである】