丹道逍遥 文始真経(六 匕篇一一〜四)静坐秘伝「返還先天法」
丹道逍遥 文始真経(六 匕篇一一〜四)静坐秘伝「返還先天法」
道家は「先天」を重んじ「後天」を警戒する。それは「先天」のあるべき状態を「後天」的に身に着けた知識や欲望によって曇らされていると考えるからである。「先天」は、これを気で言うなら「祖気」とされる。「後天」の気は「神、気、精」である。こうして分化することで働きを持つことになる。「祖気」とは遺伝子記憶のことであり、生きる上での最低限の知識のことである。昆虫などは生まれた時には親は居ないことが少なくない。それでも自分で食べ物を得て、子孫を残して死んで行く。しかし、どうやら人は遺伝子記憶だけでは生きていけないようで、後天的に多くのことを学ばなければならない。これはまたいろいろな道具を発明したりして本能以上のことができるようなるシステムでもあるが、「本能以上」とはまた「欲望」を生み出すことでもあった。このあたりのバランスを適切に取らなければならない、というのが道家に限らず、多くの宗教の考えたことであった。
現在、我々は「後天」の世界にあるわけであるが、これから「先天」とのバランスを得るには「静」をもってしなければならないとする。「静」をもってするとは「無為」をもってする、ということである。そうであるから道家における静坐の修練は「清静無為」を第一とする。それは「修することのない」「為すことのない」状態でもある。しかし、そうであることで始めて「戒めること無くして自ずから戒まる」「鎮めること無くして自ずから鎮まる」「智慧無くして自ずから智慧生まれる」「悟ること無くして自ずから悟る」という適切なバランス状態を得ることが可能となるのである。
(参考 蕭天石『道海玄微』)
文始真経
六篇は「匕(さじ)篇」である。これには「匕は食と関係する。食とは物質である」との副題がある。匕は、これを用いると一杯、二杯と数えることができる。食物を「量」として捉えることができるわけである。これにより食物は、匕で数えられるものの中に一般化される。砂糖も砂もクリームも水も全て一杯、二杯と数えることができるものとして同じと見なすことが可能となるわけである。このように異なる基準によれば見え方も違ったものとなるのである。
以下では、物事を見るのは「目で見る」「夢で見る」「想像する」の三種類があるが、どれも等しく「認識」することにおいては変わりはないとする。つまり人は実際にあるものだけを認識しているのではなく、実際は無いものでもあると思うこともあるのであり、これは一般的には「思い違い」とされる。ただ現実との乖離が余りに大きくなれば日常生活を円滑に行うことができなくなる。そうなると統合を取り戻すための治療も必要となる。聞くところによれば催眠術を用いた捜査は、思い込みも「真実」をして語られることがあるために用いられることがないらしい。これは「脳内」では実際にあったことも、思い込みで起こったことも等しく記憶として残っているからであるらしい。
道家で重視するのは「先入観」である。「常識」とされることの呪縛から如何にして自由になるか、が大きな問題として提起されている。ここでは特に「思い込み」への注意が促されている。
(一)
関尹子が曰れた。
世の人は「自分は彼とは違っている」と思うものである。
彼のことを考え、自分と異なっていると思うものである。
実際に自分と彼とについて特に知られていないのは、
夢の中であっても、人は「自分と彼とは違っている」と思うということである。
また「彼も自分と違っていると思っている」と思うことである。
思う主体が「自分」であっても「彼」であっても、
共に相手とは「全く異なっている」と思うものなのである。
また自分の痛みは、彼の痛みとは異なるものである。
彼の痛みも、自分の痛みとは違っている。
現実の自分と彼だけではなく、
夢の中であっても、自分の痛みは彼と全く異なっているのであり、
彼の痛みと自分の痛みは異なっていると思うものである。
「全く異なっている」と思うことの主体は、
自分であることもあれば、
彼であることもある。
(どちらにしても共に何かを感じるから、そう思うわけである)
一方で爪や髪が痛みを感じないのは、そう感じることがないからである。
あらゆる感覚の主体は、それを感じる人自身である。
どうして自分以外に痛みを感じる者があると言えるであろうか。
それは現実であっても、夢であっても変わりはない。
それはどのような時でも同じで、
エネルギー(精)の集まっているところが物として見えるのである。
昼間、起きている時には意識(神)が集まるとろに物が認識される。
現実に見ている自分や彼も、夢の中で見ている自分や彼も
それぞれが認識できるものを認識していることに変わりはない。
それは共に「エネルギー(精)」と「意識(神)」によっているのである。
夢であっても、現実であっても、感じることには変わりはないのである。
ただ見る時間が短いのが夢であり、長いのが現実であるということはある。
しかし見ている時には、見ているのが長いのか短いのかは分からないので、
それが現実か夢かを区別することはできない。
陰陽の気は夢でも、現実でも、陰陽の気であることに変わりはない。
これらを見るのは全て見る人自身によっている。
そうであるから夢でも現実でも等しく物を認識しているのである。
(二)
関尹子が曰れた。
すばらしい仁があると思うのは、おおよそが夢である。
すばらしい松や柏、桃や李があると思うのも、おおよそが夢である。
すばらしい礼にかなった軍刀や金や鉄(財産であり心を欲望に陥れるもの)があると思うのも、おおよそは夢である。
何でも知ることのできる占いの道具や祭祀の道具があると思うのも、おおよそが夢である。
すばらしい河や湖、川や沢があると思うのも、おおよそ夢である。
山岳や原野は、五行の変化であり、そうでないものはない。
つまり夢の中で、あるいは何かを聞いたとして、何かを思ったとして、
それが夢の中であったとしても、それは現実と同じく五行の変化が表れているわけである。
聖人であっても、それは同様である。
物を見るのも心であり、
心を統合しているのは性(心の働き)である。
造化の働きも、五行の変化も、
全ては性によって統合されている心が認識していることなのである。
(三)
関尹子が曰れた。
もし、蛇の頭で人の体の者を見たとする。
牛の腕で魚の鱗のある者を見たとする。
それは人であるが、禽獣の形をもしている。
こうした者は、居るはずもない。
もし、居るとすれば夢の中であろう。
夢で見ても、目が覚めれば居なくなってしまう。
耳があり、目があり、手があり、腕があるような者は居る。
荒唐無稽なことは語るに落ちる。
荒唐無稽な知識も同じである。
(四)
関尹子が曰れた。
誰かに「私は誰か」と問うたならば、
相手は何家の何さんで、通り名はこれ。何を食べ、何を着て、誰が友達で、どんな召使いが居て、どのような琴を弾いて、何を書いて、昔は何をしていて、今はどうしている、と言うことであろう。
自分はただ聞いていて、何ら口を挟むこともあるまい。
あるいは、こうした外面的なことにこだわる人も居るであろうが、私はそうではない。
こうした言説には、
「そうしたことは気にもしていない。それをして自分であるとされても困る」と応えるであろう。