丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇十五一〜二十)静坐秘伝「息妄全真法」
丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇十五一〜二十)静坐秘伝「息妄全真法」
これは「盲心」の働きにとらわれることがなければ、自ずから「真心」に帰することができる、ということである。「真心」は「本来の心のあり方」であり、これを「道心」「天心」という。一方「妄心」は「凡心」「物心」とも称する。つまり「とらわれの心」が「妄心」ということである。物にとらわれない心のあり方に戻すには、どうするか。それは「静」に依らなければならない。老子は濁った水は「静」をもってすれば、それを清めることができる(第十五章)と教えている。
仏教の唯識思想には「熏習(くんじゅう)」ということがある。これは簡単に言えば「刷り込み」である。我々は、いろいろな経験をするが、それが心に刷り込まれるのを香りが染み込む「熏習」という言葉で表現しているわけである。つまり、ここでも心は「無」であり、それが熏習によって個々人のとらわれになるという理が示されている。唯識では、また「能熏」「所熏」ということも考えられており「能熏」は経験などの熏習を起こす行為のことであり、それが記憶となって心に染み込んでいるところである深層意識(アーラヤ識)が「所熏」とされる。仏教ではこうした「記憶」からの完全離脱を模索するのであるが、おそらくは無理であろう。こうした「記憶」はできるだけとらわれないように心がけるくらいで良いのではないか、というのが文始派の考え方である。
(参考 蕭天石『道海玄微』)
文始真経
心は「無」である、というのが文始真経の教えである。そうしたこともあって、多くの瞑想法が心にイマージを刷り込もうとする。これは一定の教義などがある場合には特にその傾向が強い。そして、刷り込みが完成した状態が高い境地にあると思い込まされる。チャクラを見るとか、クンダリーニを覚醒させるというのも、ひとつのサイコドラマ(心理劇)に過ぎない。本来的には、そうした架空の物語をたどることを経て、それを超越することが求められるのであるが「物語の完成」をして悟りを成就したと思い込んでいる人が実に多い。禅宗では「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」(『臨済録』)と教えている。ここにおいて禅宗からの離脱が生じなければならないのであるが、これを悟って禅宗から離れる人の居ることを聞いたことがない。例えば黄檗宗の公式見解を伝える黄檗ネットでは、この公案について「禅宗こそ、仏陀の精神をしっかりと伝える『正伝の仏法』ということになろう」という卒倒しそうな解釈を示している。ただ、これを唱えた臨済義玄、自身も僧であり続けたのであるから、欺瞞的、幻惑的な言辞であるに過ぎないのではあろう。こうした欺瞞性はバクワン等のニューエイジのリーダー達にも共通して見られることで、耳障りの良いことばかりを述べて良しとする。バグアンがアメリカでの犯罪者のイメージから逃れるためかOSHOと名乗るようになったのは「欺瞞性」ということで計らずも「禅宗の徒」と一致した、とすることができるのかもしれない。
(十五)
関尹子が曰れた。
人が普通の時に見るのは、
全て注意が行ったところである。
そうであるから、
病んでいる時に見てしまう妄想は、
全て心だけによるものである。
そうなると、
心には「無の中に有」が示されていることになる。
そうであるなら、
我が心には「有の中に無」が示されているのが分かる。
(物事を正しく認識できない時に心は「無の中に有」を見ているわけである。一方、健常である時は心は「無」であり、そこに認識されたもの、つまり「有」が投影有されているわけである。この時、心は「鏡」に例えられる)
思うことのないところには、意識(神)が働くことはない。
それは認識されていないということであり、
見えていないということでもある。
そうなれば、どうして認識することができようか。
つまりは、
蛇を捉える職人は、蛇を怖れることはない。
(遺伝子的な記憶として「蛇=恐ろしいもの」というリンクができあがっているが、これは思い込みでもある。どのような「記憶」も「慣れ」によって無いものとすることが可能である。それは心が本来的には「無」であるからに他ならない)
そうした人物は夢に蛇をみても、怖がることはないのである。
故に、
黄帝は「道において鬼神は居ない。ただ現象があるだけである」と教えている。
(何か理解できないような現象を鬼神のせい等とオカルトめいた解釈をしてしまうのは「理解できないこと=鬼神、神仏の行い」とする刷り込まれた「記憶」があるからである。「道」の悟りを得れば、こうした仕組みが分かるので、刷り込まれた「記憶」から自由になることができる)
(十六)
関尹子が曰れた。
人の想いは日々変じている。
そうであるから「自分」とは普遍的な存在ではないわけである。
これが人のある状態である。
「自分」というものは外にあるのではない。
「自分」の中の心にも「あるべきあり方」があるわけではない。
(「自分」を規定するものはどこにも無い)
(十七)
関尹子が曰れた。
「回光」とは、
光のあるところではあらゆるものを見ることができるが、
光のないところでは何も見ることができない、
といったようなことである。
(「回光」の時とは「光=視線」を外に向けるのではなく、内に向けることで、そうなれば外的なものにとらわれることがなくなる)
(十八)
関尹子が曰れた。
眼(視覚)を通して認識されるのは心に刻まれたものである。
これは心の囚われでもある。
耳(聴覚)を通していろいろな音を認識できるのは、
心がよく働いているからであるが、
これも心の囚われとなる。
玄妙をも、それを考えれば考える程、
心の囚われは深くなってしまうのである。
(十九)
関尹子が曰れた。
自分の心で、他人の心を推し量るべきではない。
その人は、その人の心をして理解するべきである。
これは物事の理解でも同じで、
こうしたことを行うのが徳の行為なのである。
つまり道を実践することができているわけである。
こうして自分の想いにとらわれた理解をしようとしなければ、
自己にとらわれからも解放される。
(二十)
関尹子が曰れた。
天下の理は、
小さな範囲に限定することがなければ、
大きな範囲に及ぶことになる。
大きな範囲に限定することがなければ、
あらゆることに及ぶことになる。
そうであるから、
よく感情を制することができれば、
徳を行うことができるようになる。
よく感情を忘れることができれば、
道に通じることができるようになる。