道徳武芸研究 柳生心眼流は「拳法」なのか

 道徳武芸研究 柳生心眼流は「拳法」なのか

柳生心眼流の激しく拳を振り回す「素振り」を見れば、それが拳法の練習であるかのように思ってしまうのも無理のないことかもしれない。しかし「素振り」の動きは拳法の形として見た場合には不合理であり、またこの動きは棒術そのものであることからしても、柳生心眼流のベースとなるシステムは棒術とされなければならず、これを拳法のシステムとして理解することは困難であると言わなければならない。


柳生心眼流が古武道では珍しい当身を中心とする拳法的なシステムであることを広く紹介したのは松田隆智の『謎の拳法を求めて』(1975年)である。こうした流れを受けて大東流からの影響を小さくイメージ付けたいと思っていた植芝吉祥丸は、かつて盛平が同流を修行していたことを強調していた時期もあった。またこれは盛平が「合気道は当身が七分」としていたこととも関係していよう。しかし実質的に合気道では当身の稽古はなされていないし「柳生心眼流のイメージ=当身」が広まるのも好ましくないと思われたのか、現在では柳生心眼流が特に強調されることもないようである。実質的には合気道が大東流から派生したことは明らかであるし、盛平の言う「当身」は「間合い」のことで、これには拳や掌を用いた突きや打ちを含めることもできるが、本質的には「相手の意識を撹乱させる」との教えであることからしても柳生心眼流と合気道の関係を過度に主張するのは適当ではない。


柳生心眼流が拳法的である、ということはまた八極拳との類似においても指摘されたことがある。八極拳は下から相手の攻撃を跳ね上げるようにする動作が多くあることもあり、心眼流との類似が着目されたのであった。これは八極拳が棒術と深い関係があるからと思われる。おもしろいことに顔の横と腹部あたりに構える八極拳の基本の構えは柳生心眼流とひじょうに似ている。柳生心眼流が正面で、八極拳が横に構えている違いに過ぎないということもできる。こうした構えは棒術の基本である。こうした下段の構えを基本とするのは、棒術が相手の攻撃を跳ね上げて、上から打ち下ろすパターンを多用するところにある。一方、槍術は中段に構える。これは形意拳に見られる構えでもある。槍術は相手の攻撃を上から叩き落として中段を突く、そのために下段に構えることはしない。

八極拳と棒術との関係については、劉雲樵が考案した忠義拳によく表れている。これは八極拳を参考としたもので動きそのものは八極拳にひじょうに近い。この忠義拳はまた形そのままで銃剣を使うことができるようにもなっている。このことは八極拳の動きが銃剣やそれくらいの長さの棒を使うことのできる動きでもある、ということである。一方で、八極拳の有名な形である猛虎硬爬山は、上から相手の攻撃を二度、三度と叩き落として突きを入れる技であり、これは槍術的な動きといえる。八極拳の基本的な動きが下からの棒術的なものであることからすれば、猛虎硬爬山のような槍術の動きを加えたのは李書文ではなかろうかと思われる。また猛虎硬爬山は「神槍」と称されてた李書文の得意とした技でもある。


柳生心眼流の「素振り」には「表」「中極」「落」の形があるが、これらは基本的な動きは同じで三段階に変化をさせている。見たところ「表」は基本で、全身の協調した動きを習得するためのもののようである。「中極」は速い動きで、「落」は腰を低くした足腰の鍛錬とすることができる。こうした基礎を作っておいて棒や剣、柔へと展開させて行くのが柳生心眼流のシステムといえよう。

また「素振り」には別伝として「切」というものもある。これは「当身切り」の練習で甲冑を付けていて相手が引き倒そうとした時に、その握っている手を打って離させるための練習である。甲冑はひじょうに重いので引き倒されると直ぐには起き上がれない。そこで何とかして引き倒されないようにしようとするのが「当身払い」である。同じく柔道の古式の形も、甲冑を付けている状態で引き倒されるのに対処する技が示されている。柔道(起倒流に伝わったとされる)では相手の手を切るのではなく、引く力を利用して相手を投げるのが基本である。


柳生心眼流の「素振り」の成り立ちを考えるに、ベースとなったのは甲冑「柔」としての「切」であろう。その後、棒術による体系が構築される時に「表」「中極」「落」が必要に応じて次第に出来たように思われる。これらの名称に統一性がないのは「素振り」のそれぞれが異なった時に考案されたことを示しているのではなかろうか。「表」「中極」は基本と応用であり、「落」は身体を沈める鍛錬形であるから「表」や「中極」とは違っている。特に座りが悪いのが「中極」で「表」に対するなら「裏」とした方が一字名として合わせることができる。ただ、こうした統一の無さは、全てが必然から生まれたことを表すものであり柳生心眼流の実戦性を裏付けてもいよう。


以上のことからしても柳生心眼流を「拳法」として捉えることは不可能であり、そのシステムには独特なものがあるものの伝統的な武器術とその応用としての柔術の範疇に留まるものと思われるのである。


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