丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇五〜十)静坐秘伝「息心止念法」

 丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇五〜十)静坐秘伝「息心止念法」

心の動きを息(やす)ませ、念の起こるのを止める法ということである。つまりは心の働きが鎮まれば妄念も起こることがない、ということである。丹書では「降心」を記す。仏教では「止」をいうが仙道では「降」とする。けっして心の働きを止めるのではなく、適度に鎮めるのであり、それにより妄想にとらわれることのないことが重要とする。妄想そのものが生じるのは仕方のないことであり、正しい想いと誤った想いは共に同じ心の働きであるから、それ自体を止めてしまうことはできないと考えるわけである。重要なことはとらわれがなくなることであり、これを「心中無一物、乾坤自在の間」とする。心がとらわれることがなければ、乾坤(天地)にあって自在の境地にあることができる、ということである。「降心」は「心を降す」のではなく「心が降る」と読まれなければならない。「降す」という意図的なことではなく「降る」という自然に起こることであるべきなのである。

                              (参考 蕭天石『道海玄微』)

 


文始真経

ここで説かれているのは仏教の唯識と同じである。「文始真経」は尹喜(関尹子)が実際に書いたとすれば紀元前六世紀ころの文献ということになるが、今日の研究では十世紀あたりに作られたのではないかと考えられている。それはここにあるような唯識などの後の思想が入っていることも、その理由とされる。ただし伝説では老子は尹喜に教えを残してから西域の方に赴き、釈迦となったとされている(老子化胡説)から「文始真経」に唯識的な文言があるのも矛盾しないことにはなる。

それはともかく人の心は外的なものによって煩わされるが、そうであるから、それを意識しないようにすれば良いわけで、そのためには余計なことを認識しないことが大切なのである。「老子」第八十章には「隣りの村から鶏や犬の鳴き声が聞こえて来ても生涯、行こうとも思わない」とあるように余計なことまで知ろうとすると面倒が生まれることになる。


(五)

関尹子が曰れた。

心の働きが分かれば、心が物を認識しなければ物は無いことになることが分かろう。また物があると思っても、実際は物の無いこともある。そうであれば道のあることを知っていても、それを認識していないこともあることになる。全ての価値判断は個々人の主観によっている。そうであるから常人の行えないような行為を価値あるものと考えることにも、とらわれることは無いし、よく思いもよらない有い教えに接しても心を奪われてしまうこともないのである。


(六)

関尹子が曰れた。

心が物を認識すれば物が存在することになる。これは木を擦り合わせて火が生まれるのと同じで心と物との関係で認識は生まれるのである。物は認識されなくても存在している。そうであるから自分が認識しなくても物は存在しているし、また認識しなければ自分にとっては存在していないことになる。自分も他人に認識されなければ存在しないことになる。存在を認識する主体は認識する人にある。そうなると物に煩わされるのは自分が愚かであるからであることが分かる。


(七)

関尹子が曰れた。

誰かに頼りに思われているとする。この場合の利害は、ただ思われているだけなので自分とは直接に関係しない。利害と関係ない人が利害と係ることがあるであろうか。聖人はつまりは利害の圏外に居る。そうであるから利害と関係のないところにあれば何らそれに影響されることはないのである。


(八)

関尹子が曰れた。

夜に見る夢は、時には長いこともある。夢は心が働いていない時に生じるものである。心が作っているものに「国」がある。宋国であっても、魏国であっても、晋国であっても、全ては心の働きによって作られている。「国」とは、それぞれの心に、それぞれに存しているものなのである。


(九)

関尹子が曰れた。

善く弓を射る者は弓を師として、弓の名人を師とすることはない。善く舟を操る者は、舟を師とするものである。善く心を養う者は心を師として、聖人を師とすることはない。


(十)

関尹子は曰れた。

正しいこと、正しくないこと、美しいもの、醜いもの、成功、失敗、増えること、減ること、物事はいろいろに変じている。そして全ては人が認識することによって知られる。

つまり物事があっても、それが認識されなければ無いことになってしまう。それ自体はあっても無いことになってしまうのである。そうであるから無いと思われる物が実際にはあることもある。

無いと認識された物が実際に無いこともあるし、無いと思われていても、実際にはあることもある。

これは忘れていたことを思い出すのと同じである。

人が忘れたことを思い出せるのは、そのことが記憶から消えたからではない。つまり人は忘れても、記憶が消えてしまうわけではないのである(思い出せないだけなのである)。また記憶が消えてしまっても、物それ自体が無くなるわけではない。

物事をよく知っていれば、それは知識となる。認識と知識は全て個人の記憶によっている。

何かを想像して怖れる。それは思いが感情を支配しているからである。つまりは想像が感情に影響しているわけである。

想像とは黍の種から成長した黍を想像することであり、原石から得られる玉を想像することでもある。このような合理的な想像もあれば非合理な想像もある。例えばよく分からない物を見て、かってな妄想をする。このような非合理的な想像も認識によるものである。

認識したり想像したりすることには、自分自身だけが関係しているのではない(必ず対象となるものがある)。

今日がどのような日であるか、は分かる。しかし明日がどうなるか、を知ろうとするならば、占いでもするしかない。明日がどうなるか、は分からない。想像は自分だけによるのではなく関係する対象があって始めて行い得るのである。

それは犀に例えて太陽や月を想像するようなもので、そうなると「犀の角は月の形に似ている」という想像になる。これは想像によって生まれる認識である。具体的な月の形がある。これは単に月であるに過ぎない。もし角を思うことが無ければ、月が犀の角のように認識されることは無く、それはただ存在しているだけになる。こうしたこと(認識論)を言う人は他には居ないことであろう。こうしたことが分かれば物に関する想像にとらわれることもなくなるであろう。


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