鄭環『老子本義』(上経 一章)オカルトバクハツ!〜「くらしの中の祈り」展〜
鄭環『老子本義』(上経 一章)オカルトバクハツ!〜「くらしの中の祈り」展〜
調布市郷土博物館では「くらしの中の祈り」展が開かれている。この展示では調布の旧家に残されていたいろいろな寺社の「札」などが展示されており、近世から近現代にかけての信仰のあり方を伺うことができる。人の願うことは大体において「福禄寿」に象徴されるように「福=地位」や「禄=金銭」「寿=健康」であろうが社会情勢によっては特別な「祈り」も生じる。展示では武運長久など戦時を思わせる「札」もあった。また大山阿夫利神社の神代文字を記したものも見られた。こうした特殊な「札」が生まれた背景の詳細は今となっては分からないが、何らかの思いの高まりがあったと思われる。つまり「オカルトのバクハツ」があったわけである。
こうしたオカルトへの思いの高まりは職業や地域においても生じており「講」として信仰を共有していた。これについての展示もあり、近世に多く作られた「講」も次第に社会構造が変化(農村から都市へ)するにつれて消滅して行ったことが示されている。郷土芸能(獅子舞)も、同様の傾向にあるが、東京郊外地域では新たな共同体が出来て維持されているケースも少なくないようである。つまり本来は村落の共同体があって「芸能」も担っていたのであるが、現在は「芸能」を担うためだけの「共同体=グループ」が作られているわけである。これは大都市・東京の周辺で急激な人口増加があって、いろいろな関心を持つ人が住むようになり「芸能」に興味を持つ人が一定数居ることによる。これは地方の田舎で、共同体の形が変わらなく、ただ過疎になるだけであるのと大きく違っている。
これらの展示は一室だけの小さなものであるが「札」「講」「年中行事」「郷土芸能」「現在の信仰」と多彩な視点でよく地域の信仰のあり方が示されている。
「くらしの中の祈り」展は9月23日まで
今回より鄭環の『老子本義』(1784年、乾隆四十九年)を読むことにする。鄭環は江蘇省の出身で清代の武挙に合格している(科挙は文官の採用試験であり、武挙は武官の採用試験)。特色としては鄭自身は老子の考えをそのままに理解しようとするスタンスであるが易理を用いていることもあり、そうした点に解釈の特異性がある、ということができるであろう。
一章について
一般的には「道可道非常道」「名可名非常名」と対になる形で読んでいるが、鄭環は「道可道非常」と「道可名。非常名」とする。「道」と「名」ではなく、全てが「道」について述べていると解釈するわけである。ここでは「常」が特別な意味(永遠)を持つものとなる。これは老子が「道」をいう時に「常」をもって形容することもあるので、間違ってはいない。一般的な読みでは「常」は「通常は」ということで特別な意味には解さない。
鄭の理解では「道」を「道」とのみに限定するなら、それは「常」なるものではなくなってしまう、ということである。つまり、もし「道」という「名」を付けているものが、その「名」だけに限定されるとすれば、それは「常」なる「名」とはならない、というのである。つまり「コーヒーカップ」と「名」付けられている「器」は、あるいは「茶碗」との「名」を持つこともできるし「花瓶」という「名」で呼ばれることもあるかもしれない。つまり「名」は、その対象に対して一つに限定されない、ということである。
また一般的な読みでは「道」と「名」を並置していると誤解されることがあるようである。この部分は「道」という「名」について述べているのであり、「道」という「名」をもつものは「道」の「名」だけで、そう呼ばれるものとは限らない、ということである。これは他のものについても同様である。つまり「道」という「名」だけを最初に問題として、次いで「名」全てにおいても同様のことが言えるとするのである。鄭の読み方は、こうした意味をより明らかにするものではあるが、文の調子ということでは以下に見るように対句表現と理解するべきではあろう。
道可道非常道
名可名非常名
『老子本義』
上経
漢の景帝は、よく老子の思想を自己に体し『老子』を経典(道徳経)とした。王羲之は『太上玄元道徳経上篇』を書いている。河上公は『老子』を八十一章に分けて、上経は天の数である奇数に合わせて三十七章とし、下経は地の数である偶数に合わせて四十四章にした。唐の玄宗は『道徳経』に注をして、上巻は「道」について述べているのであり、下巻は「徳」を言っているとした。ただ上巻は「道」だけを述べているのではなく、下巻も「徳」だけを記しているのではない。上巻も下巻も「道」や「徳」について触れている。そうであるから上下巻を「道」と「徳」に分けるのは妥当とは言い難い。王弼の注は上下巻を「道」と「徳」とはしていない。また各章に題名も付けていない。また「第」何章ともしていない。ここでは、それによって「第」何章とはしない。
一章
道として考え得るものは真実の「道」そのもの「常(=永遠)」なるものではない。
「常」とは「常」に真であるものである。十六章には「常がどのような存在であるかを知っている」とある「常」である。
道と称せられるべき真実の「道」は「常(=不変)」の名を持たない。
「常」は、趙同カク(明代の文人。カクは融の「虫」が「羽」)によれば「名」であり、つまりは「道」のことであるとしている。これに就いては二十五章で「我はその名を知らない。あえて言うなら道である」というのと同じである。
(「常」も「道」も究極的な存在を表すひとつの「名」である。つまり常」も「道」も同じことを言っているのである)
無名は、天地の始めである。有名は万物の母である。
趙同カクは「無名」は「道の体」であるとしている。四十一章には「道は隠れていて名を持たない」とあるのが「無名」ということである。両儀は太極に隠れている。こうしたことが始めに「名」があったということなのである。「道の用」は三十二章に「始めに作るのは名である」ということである。万物はこれによって認識される(生まれる)。そうであるから「母」としている。
(両儀は陰陽が静止している状態で「無名」、太極は関係をもって動いている状態で「有名」であるとする。物事は働きがあって始めて認識されることになる)
つまり常に無欲であると、その妙を観ることができているのである。
王弼のテキストには「妙」とあるが、本によっては「眇(びょう)美しさ」とある。諸本の多くは「常に無であれば」と読んでいるが、三十四章には「常に無欲」とあるのを見ると「欲」を入れて読まれるべきである。
(現在では「無欲」「妙」とするのが一般的である)
常に有欲であるから、その徼(キョウ)を観ることができる。
ここの「キョウ」と読む字は、意味を理解するのが難しい。ある本には「竅」としている。雇日融(清代の道士)は「妙」であるとする。これは無から有が生じる不思議さをいうものである。「徼(めぐる)」は、自ずから無へと還るということである。
(現在のテキストは「竅」とする。これは「穴」の意味があるのでチャクラのような霊的な中心であるとの考えもある。「妙」と考えるのは次の「衆妙の門」と合わせるためであろう。多くの解釈は「無欲」を良しとして「有欲」は否定的に捉えようとするが、次には「無欲」「有欲」は共に同じところから派生しているとされているので、これらはどちらが良いというものではない、とする方が良かろう)
この二つ(無欲と有欲)は同じところから発しているが、名は同じではない。こうしたことを「玄」という。「玄」であり、さらに「玄」であるのは「衆妙の門」であるとされる。
老子は「玄」を示そうとした。しかし、多くの人が自分が「道」と考えることを、そのままに「道」であると思い込んでいたり通常、言われている「名」をそのままにそうであると信じていたりしているのを老子は危惧している。「根源」のことをあえて「道」と呼んでいるのであり、「道」ただ「道」という「名」に限定されるものではない。
また「道」は「常の道」ではないということでもない。また「常の道」が「道」であるということでもない。「名」はそのもの自体を全て表現しているのではないのである。そうであるから「常の名」という不変、普遍の「名」というものは有り得ない。「常の道」も、ひとつの「名」をして表し得るものではない。「常の道」は天地の間に生まれたもので、生まれたそれぞれは「名」を持っている。万物は「名」を持たない「無」の状態で存在している。「名」の「無」い状態から人が認識することで「名」を持つものが生まれる。どのような「名」であっても、そのものが天地の間に存していることには変りはない(同じものでも呼び「名」が違っていることがある。しかし、それは別のものであるということではない)。
これは自分自身についても同様である。そうであるから「常に無欲」であれば、固定観念のとらわれから脱することができる。そうなれば「名」のとらわれから脱すること(「無」であること)が可能となる。つまり「名」を付けるということの真義を知るということが「有為の妙」とされている。「有常」や「有欲」は「坎卦」であり、そこには「無」が含まれている。
(坎卦は「陰陽陰」で「無」である二陰に、「有」の一陽が含まれている形である。つまり「有」と「無」は共にあるということ)
「無」もまた単なる「無」ではない。有無の二つは等しく「中黄」「太極」から出ている。これらは「名」は違っているが本源は同じである。「名」が違っているとは、つまりは「離卦」であり、これは乾卦の中に坤卦を含んでいる形である。「坎卦」は坤卦の中に乾卦を含んでいる。こうしたことの根源には共に「一」「太極」があるのである。
(離卦は「陽陰陽」でこれも二陽の「有」と一陰の「無」が共にある)
「太極」とはつまりは「玄」である。「玄」は「無」から生まれた「有」である。また「玄」はそのままで「無」に帰するものでもある。これを「衆妙」と称する。「衆妙」は天地万物から生まれているのであるが、これは身においては「手(=艮卦)」とすることができる。つまり身のあらゆる部分は「身=太極」から生まれているということである。これを知ることは「道」を「体」することの修行の究極である。
(「手」は『易経』の「説卦伝」で艮卦とされている。「説卦伝」では乾卦は頭、兌卦は口、離卦は目、震卦は足、巽卦は足、坎卦は耳、坤卦は腹で、八卦は宇宙を象徴するものであると同時に身体を象徴するものでもあり、これらは八卦は太極から生まれ、太極は両儀から生まれているわけである。こうした関係性を「衆妙」とする)