丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇一〜四)静坐秘伝「回光返照法」
丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇一〜四)静坐秘伝「回光返照法」
回光返照法は、これを小周天とすれば「観」字の法門となり、密教の観想とも共通している。イメージを用いる瞑想法である。「回」には「返す」と「回す」という意味がある。「回光返照法」を小周天と考える派は「回す」と理解している。小周天は仙道でも、よく知られた瞑想法であるが、仙道全体からすれば、むしろ特異な派(北派の中の龍門派)で中級レベルとされている。「陽気を巡らせる」というイメージを使うことが余りに意図的(有為)であり「無為自然」をベースとする仙道にあっては、必ずしもそれを良しとしないからである。
一方で「回」を「返す」とすれば「回光」は「内面を見つめること」となる。そして「返照」を「外界を見ること」とすれば、これは天台止観と同じである。仏教では感覚器官を浄化して、正しく外界を知ることで「縁起」や「空」が理解されると教える。しかし仙道では、こうした「理屈=法」を悟る必要はないと考える。仏教では、釈迦が唱えた「理屈」が「真理」であることを論証しようとして膨大な「論」を積み上げて来たが、それを完全に実証することはできなかった。仙道では日が昇って、沈むように「起こることは基本的には仕方がない」と考えて「どうして仕方がないのか」は問わない。
そうであるので仙道では「回光返照」を「内面を見つめること」と考える。ただ自己の内面を眺めるだけの瞑想法となる。人の意識は目覚めている時には、常に「外」を向いている。それを反対にすることで新たな発見が得られたり、一定のバランスを取ることができると考えている。仙道における覚醒は「逆」にあるとされる。無為自然でいうなら目覚めている時に意識が常に「外」を向いているのが「自然」であるが、それを反対にすることで「発見」が得られるわけである。つまり一方にとらわれない見方を得ること、それは「現実社会=実」に対する「虚」であった。「虚」であるからそれを「縁起」や「空」などとして限定的に語ることはできない。「虚」はあくまで現実社会に対するアンチテーゼ(反対、疑問)なのである。これを内的に行えば精神革命となり、外的であれば社会革命となる。
(参考 蕭天石『道海玄微』)
(一)
関尹子が曰れた。
心が吉凶にこだわらなければ、霊魂(心)は平穏である。
心が男女にこだわらなければ、淫鬼(淫乱な思い)にとらわれることもない。「
心が心配事にこだわらなければ、悩むこともない。
心が統一を欠いていれば、心は乱れてしまう。
心が呪術にこだわらなければ、むやみに恐れることもない。
心が薬餌にこだわらなければ、過度な食事の心配をすることもない。
このように物事は道理によっている。
魂は陽であれば陰は物となり、
それは形を持たない魂とは反対に形を持っているものとなる。
魂は陽で、幽(鬼)は陰なので、
これは魂とは反対に形を持っている(かすかでも見ることができる)。
また風は形を持っているし、
また気も形を持っている。
また土人形は形を持っており、
それを彩色しても形を持っていることには変わりはない。
あるいは老いるのは形を持っているからで、
器が壊れるのも形があるからである。
ある物とこの物、
これら二つの物が出会うのは、
互いが引き合うからである。
魂が整えば、
不思議なことに係ることはない。
おかしなことも係わらない。
悪いことも係わらないし、
良いことも係わらない。
ここに「一」なる人が居るとすれば、
魂を語ることもなく、
ただ道を言うだけである。
長くあれば、
木で出来た物は滅び、
金属の物も無くなってしまう。
縄も無くなり、
井戸も枯れてしまおう。
しかし聖人だけは、
そうした盛衰にとらわれることがない。
そうであるから、
万物の生成の機を知ることができている。
生成の機より出会いが生まれる。
生成の機より別れが生まれる。
これを知ることで適切な行動が可能となる。
常に万物の心は(聖人と同様に)寂然としているのである。
(特定のものにこだわることがない)
(二)
関尹子が曰れた。
「一」に心や意識が統合されていない状態で、
心が思うままに動けば、
「一」であることはできない。
(「一=道」との統合が失われてしまう)
虚無の心であろうとすれば、
さらゆる存在は虚無的なものと思えるようになるが、
これは真の虚無であるとは言えない。
(無理に)静かな心であろうとすれば、
あらゆる変化が途切れることなく心に生じて来る。
そうなると心は静かであることはできない。
よく「一」に執着すれば「二」を招くことになる。
よく「霊」であることに執着すれば、よく「実」ともなり得る。
よく「静」であることに執着すれば、よく「動」ともなり得る。
ただ聖人だけが、よく慎むことができているので、
全てにおいて「一」であり統合を保っていれられる。
「有」と「無」の区別にとらわれることもなく、
「一」の統合が保たれている。
私がただ知っているのは、
現実世界のあらゆることにおいて、
(吸う息と吐く息があるので)「一」なる息はなく、
(生ずる物と壊れる物があるので)「一」なる物もない、
ということである。
ただ我が行為は当面は、
(「一」である統合にあることなく)
それ(二元的な世界観)を現実のものとして受け入れているだけである。
(三)
関尹子が曰れた。
火は千年も燃えつずければ消えてしまうものである。
千年といっても過ぎてしまえば一瞬である。
(四)
関尹子が曰れた。
流れの中を舟が動いている(ように見える)。
しかし動いているのは水であって舟ではない。
動いている車がある。
しかし車を動かして運んでいるのは牛であって、車が動いているのではない。
考えているのは「心」である。
しかし考えているのは脳(=神)であり、心ではない。
どうしてそうなっているのか、は分からなくても、
それはそうなっている。
全く原理は分かっていなくても、
生じていることがある。
起こることが起こって、
単にそれに応じて、いろいろなことが起こっている。
起こることが無ければ、
それに関わることもない。
余計な関与をしなくとも、
自然のままに物事は生じている。
天地は古いとか、新しいとか認識されることがなくても、
そのままに生じている。