丹道逍遥 文始真経(四符篇十一〜十七)静坐秘伝「凝神寂照法」
丹道逍遥 文始真経(四符篇十一〜十七)静坐秘伝「凝神寂照法」
これは小周天(回光返照)と同じ構造の瞑想法である。つまり神(意識)の安定は内面を眺める(寂照)ことで生ずると考えるわけである。「回光」の「回」は「返る」という意味であるから、外を見ている「視覚」を内面へと変更することを言う。一方、これを陽気を巡らせることとするのが龍門派である。現在の日本では龍門の小周天が一般的とされているが、本来は内面を眺める方が好ましいとされている。つまり周天とは自然の運行のことで、月日が巡り、季節が巡り、時間が巡るように、天地の運行と自己の内面が等しくなることをいう。つまり大宇宙としての天地の運行が大周天であり、小宇宙としての人体の内面の運行が小周天なのである。しかし小周天を陽気を巡らせることとしてしまうと大周天の説明が難しくなる。全身に気を巡らせるのが大周天などとも説明されるが、この場合は「周天」の感じはないし、ルートも明確ではない。全身周天が大周天であるとの誤解は龍門派によるものといえるであろうが、龍門派でも陽気を巡らせることにある程度、習熟したら温養の段階に入って意図的な周天はしない。つまり、この段階で天地の周天と一体となるわけである。
「凝神寂照」の「照」を体の外を観ることとすると天台止観になる。止観は心の余計な働きを「止」めて、世の中を正しく「観」ようとするものである。止観的にいうなら「凝神寂照法」は「凝神」が「止」であり、「寂照」が「観」となる。ただ仙道では世界を正しく観察して「縁起」や「空」を悟ることを意図していないので、特に森羅万象の実相を見ようとはしていないが、結果としては似た認識(虚)に至るものでもある(仙仏合宗)。
また仙道では「止」にあたることにおいても雑念をあえて止めようとはしない。仙道では「凝は凝せずして凝す。照は照すことなくして照す」との奥伝がある。つまり意図的なことをしなくても一定の安定状態に入るのが適切としているわけである。この時に重要なのは「凝」と「寂」が等しいということである。「寂」であるから「凝」となり、「凝」となるから「寂」となる。これらが相互に深め合って深い境地に入ることが可能となるわけで、この時に用いられるのが「元神」である。一般的な「神」をしても一定の集中は可能であるが、それでは「寂」の境地に入ることはできず、自然に瞑想を深めることもできない。「元神」はまた「先天の神」、「神」は「後天の神」といわれることもある。集中しようとして集中するのが「神」である。しかし、こうした集中はすぐに崩れてしまう。しかし、ただ坐っているだけで思いがけずに集中状態に入ることができれば、この時には「元神」が開いているといえる。修業者はひたすらそうした天機の訪れるのを待つのである。
(参考 蕭天石『道海玄微』)
ここでの『文始真経』は生死のことに多く触れている。おもしろいのはフンコロガシと蝉を例にしていることである。フンコロガシは古代エジプトで「再生」の象徴であった。丸くなった糞が太陽とされ、それが沈んで再び上る様子に「再生」を見たのである。また蝉は古代中国での「再生」の象徴であった。これは蝉の殻を出る様子が死体から魂が抜け出て新たな生へと向かうことと見たのであった。ただ、この場合は仙人への「再生」であるともされている。これを「羽化登仙」という。偶然であるが、ここに古代エジプトと中国の「再生」の象徴が並べて記されているのはおもしろい。
(十一)
関尹子が曰われた。
この身体は夢の中にあるかのものであることを知っているであろうか。
身体は情に従って動いている。
何かを見れば神(精神)は、それにとらわれてしまう。
太清の境地にあれば、
あらゆる物は夢の中にあるかのようである。
物は情にとらわれる。
物を見れば精(物質的なエネルギー)が固まっているものであることが分かる。
地の果てまで及んでいるのが道である。
精や神をよく見れば、長生きをしている人は精や神にとらわれていないことが分かる。
そして生き死にを超えて気を身に取り入れ、精を養っている。
それは金が水を生むのと同じである。
空気(風=宇宙の息)を吸って神を養っている。
それは木が火を生むのと同じである。
そうなのであるから例え物質的な水をすすって精を養おうとしても、それは叶わない。
火を起こして神を養おうとしても、それは叶わない。
精や神を長く持たせよとするならば、
精や神にとらわれないことである。
そうなれば生き死にを超えることができる。
自分が教えているのは、まさにこうしたことである。
(十二)
関尹子が曰れた。
フンコロガシは糞を転がして丸くする。
丸くすることに熱心であるが、それが終われば執着はない。
蝉は殻を抜け出ると、もとの殻のことを思うことはない。
果たされてしまえば、どうしてそれにとらわれる必要があろうか。
(十三)
関尹子が曰れた。
料理人が蟹をさばくのに足を一本残している。
蟹は既に料理されているのであるが、残された足はまだ動いている。
(本体は死んでいるのに、足一本だけが生きている。残った足は死んでいるべきであるが、生きているのはそうなる要因があるからであろう)
生死はひとつであり、
気が集まったり、散じたりしているだけである。
つまり、そこには生きているとか、死んでいるといったことはないのであるが、
人は誤って生死があると言っている。
(十四)
関尹子が曰れた。
人が礼を尽くせば、神(意識)は乱れることはない。
そして神が集中していれば、人はよく物事を知ることができるようになる。
礼によって正しく行動していれば精(肉体のエネルギー)が浪費されることがない。
礼によって仁による行動ができれば、気持ちは陽となり明らかとなる。
これは魂にとらわれない、ということである。
しかし気持ちが陰となれば冥(くら)く魄にとらわれることになる。
(魂にとらわれなければ生死にとらわれることもない。魄にとらわれると生死にとらわれてしまう)
(十五)
関尹子が曰れた。
死というものがある。
立っいても死ぬし、
坐っいても死ぬ。
横になっていても死ぬし、
病気になっても死ぬ。
薬を飲んでも死ぬ。
だれでも死ぬ。
しかし道を修業する者は、
生にこだわることがない。
そうであるから死にもとらわれない。
(十六)
関尹子が曰れた。
人は生死を厭わしく思うものである。
生死を超越する者は全て大いなる患者である。
それは人ではないもののようでもある。
もし生死を厭うならば、
心が生死を超越すれば良いのである。
しかし心が生死にこだわってしまうと、
邪な道に入ってしまうことになる。
そうなれば道を修することはできない。
(十七)
関尹子が曰れた。
生死を考えるのに、
死ということであれば、死はあるともいえる。
また死ということであれば、死は無いともいえる。
死は有るともいえるし、無いともいえる。
また死は、有るとも無いともいえる。
あるいは幸(さいわ)いがあるという。
あるいは慴(おそ)れがあるという。
あるいはとらわれ、
あるいは超えている。
こうした中で思いや感情は変化して、
驚きの止むことがない。
しかし自己の生死については知ることがない。
それは馬が手を知ることがないように、
牛が翼を知ることがないように、
もともと持っていないものは知ることができないのである。
持っていないというのは、
水と火で言えば、
火は水を焼くことはできず、
水は火を溺れさせることはできないのと同じである。