道徳武芸研究 システム論より見たる「酔拳」について
道徳武芸研究 システム論より見たる「酔拳」について
「酔拳」は「酔った姿を見せて相手を油断させて戦う武術」のような解説をされることが多い。また映画などでは実際に酒を飲んで「飲めば飲むほど強くなる」との設定がなされている。これは荒唐無稽な話ではあるが、多少の酩酊状態に入ることは攻防を行う上で、恐怖心などを鈍化させる効果が期待できはする。しかし、一方で酔うことで運動能力は低下する。システム論から「酔拳」を考察する上で鍵となるのは、こうした「意識」と「運動」の関係性である。これらの関係性は、また競技スポーツでも広く注視されていて「リラックスをして如何にパフォーマンスを高めるか」については、イメージ・トレーニング等いろいろな方法が提唱されているが「酔拳」が目的としたのは深層意識の中にある潜在能力への夢想であった。
ちなみに「酔拳」という名称は、現代の表演武術において広く用いられるようになったものであり「酔拳」という門派は存在しない。古くは魯智深拳や酔八仙(拳)などと称されていた。「酔拳」は酔態を示し、難度の高い動作を含むことから表演武術(床運動)としては芸術性、難易度を含む優れた套路となっている。拙稿では「酔拳」をシステム論の上から考察しようとしているのであるが、ここでは魯智深拳、酔八仙拳、酔拳の変遷を設定している。これは歴史的にそういった経緯がたどられるということではない。あくまでシステムの変遷が、そのように関係付けられるということである。
魯智深は『水滸伝』に出てくる豪快な人物で、大酒を飲んで暴れまわるのが人気となっている。ただ酒を飲んで強くなるということはない。また酔態が強さと関係することもない。魯智深が「酔拳」のシンボルとされたのは、魯智深が酒と強さによって演出される豪快さのシンボル的な存在であったからであろう。当然のことに「酔拳」は酒と関係が深いわけであるが、これは酒を飲むことで恐怖などの表層の意識を鈍化させて、人が本来もっている潜在能力を発揮できると考えたからのように思われる。こうした現象は中国ではタンキーなどの憑依シャーマンに見ることができる。中国では憑依シャーマンは多くあり、孫悟空や関羽などに憑依すると火の付いた線香を体に当てたり、棒で体を打ったりしても平気な様子を示す。また刀やトゲの付いた棒で体を激しく打っても何ら苦痛を感じないといったパフォーマンスを見せることもある。こうした入神状態に入る時に飲酒が用いられている。おそらくはここに「酔拳」の原点があるのであろう。
これは今風に言えば「表層意識の抑圧を失くして潜在能力を発揮する」ということになろうが、かつては何らかの神霊の力に依るものと考えられていた。同様のことは義和団事件でも見ることができる。義和団事件では義和拳なるものを修業していたとされるが、これを練れば銃弾や槍、刀もその体を傷つけることはない、と盲信されていた。義和拳では護符を身につけることで、そうした霊力が付与されるとしていたらしい。また酔態によらないで潜在能力を開こうとしたのが意拳である。意拳では表層意識の抑圧から解放されることで、攻防において最もふさわしいパフォーマンスが可能となると考えたのであった。こうした考え方は「酔拳」と等しくしているが、次に述べるように「技」についての問題も、そこに等しく生じていたと考えられるのである。
表層意識から解放されて自由に動くのが魯智深拳であったとするなら、そこに「技」の入り込む余地はない。ただ、それだけでは有効な攻防ができないことが分かったようで、いろいろな門派の技を取り入れようとしたのが酔八仙拳である(システム論から言えば)。酔八仙拳では八人の仙人のイメージによって、いろいろな技が集められていたと考えられる。これを予め習得しておいて、実戦では表層意識の抑圧を解放して戦えば、より効率の良い動きが可能となると考えたわけである。これは意拳で後に形意拳の動きを取り入れるようになったのと似ている。こうしたシステム変更が示しているのは、潜在能力の中には「理想的な攻防の動き」は無かった、ということである。ここにおいて酔八仙拳は表層意識からの抑圧を除くことでリラックスして技を行うことの出来るシステムへとなったのであり、これは今日のスポーツでもなされていることである。
潜在意識の中に「理想的な攻防の動き」つまり「技」がないとするなら、あえて酔態を演じる必要性もなくなってしまう。酔態はあくまで意識の中だけで良いのであり、動きそのものは普通の技を用いるからである。結果として攻防のシステムとしての「酔拳」は成り立たないことになってしまい、今日のように表演や映画だけに存在場所を得ることとなっているのである。
付論
鄭曼青は酒に強いことをわざわざ著書(『鄭子太極拳十三篇』)に記している。酒を飲んで強くなったとはしていないが、太極拳を始めてより酒が強くなった、とはある。このように中国では酒と特殊な能力とは親和性が高いように思われている。有名な詩人である李白は「詩仙」と称されているが、李白が「仙」を冠して言われるのは酒を飲むことで脱俗の境地にあった為である。つまり李白の特異な詩想は酒によって得られていたと考えられているのである。
こうしたことは『荘子』(外篇・達生)にも見ることができる。
酒に酔った人が車から落ちても、たとえそれが速く走る車からであっても、亡くなることのないことがある。体は普通の人と同じであるので落ちれば当然ケガなどをするものであるが、酔っている人であっても、そうした害を受けないのは普通の人と違うところがあるからである。それは神が完全(神全)であるからである。
この部分は「酔っていれば例え速く走る車から落ちても死傷することはない」という意味に解されることが多いが、これは「酔っている人一般」とするべきではない。酔っていても、いなくても疾走する車から落ちれば死傷の危険は当然にある。むしろ酔っている方が高いと思われる。こうしたことが前提とされているとしなければ、この部分は全く荒唐無稽のこととなってしまう。当然、大ケガをしたり亡くなったりしても不思議ではない泥酔者が全くケガもしていないことがあれば、それは「神が完全」であるから、ということである。「神が完全である」とは、どのようなことかも記されている。それは「驚いたり懼(おそ)れたり」する感情がわかないからであるとある。つまりは、あるがまま(無為)に事態に対応できている、ということである。結果として余計な動きをすることもないのでケガもしないわけである。つまり人は酔うことで偶然、道と合一したのと同じ境地に入ってしまうことがあるということである。このように道との合一「無為自然」は特異なことではなく誰でも入り得る、あるいは時に入っている境地なのである。