姚姫伝『老子章義』(第七十一章から第七十六章)仙道と仏教はひとつ〜仙仏合宗について〜
姚姫伝『老子章義』(第七十一章から第七十六章)仙道と仏教はひとつ〜仙仏合宗について〜
「仙仏合宗」とは仙道と仏道は根本において共通している、という考え方である。これは仙道、仏教ともに基本としているのは「自然の法則」であり、これを仙道では「道」、仏教では「法」と称している。そして「自然の法則」のままに生きれば人はストレスなく暮らして行くことができるわけで、そうした教えが仙道であり、仏教であるとしている。
釈迦が「法」を発見したのは、満たされない欲望への苦しみを自覚したことによる。そして欲望は人の生存欲から発するものであることを知った。それはあらゆるところに及び、尽きることがない。バラモン教などの呪術を使えば、その幾つかが満たされるかもしれないが、しかし、そうした方法を採っても欲望を満たし終わらせることはできない。そこで釈迦は欲望から解放されるには「自己完結」でなければならない、と思いついたのである。「欲しい」と思わなければ、あらゆる欲望に発するストレスはなくなってしまう。そこで欲望のストレスから離脱するには「あらゆるものは変化してしている」と思い込めば良いと気づいたのである。つまるところ釈迦は「欲望が成就しないのは、それが自然の理であるからであり、それは諦めるしかない」と考えたわけである。
一方、仙道では天地の動きを観察することで、そこに一定の「法則性」のあるのを見出した。これが「道」である。そして「あらゆることが自然の理によって生じているのであるから、それ以上のことを願っても仕方がない」と考えたのである。そうであるから「自然」のまま、具体的には「無為」であれば良いと教えている。仙道では仏教のように「どのようにして諦めるか」について語られることはない。諦めるように努力すること自体が「有為」であるからである。つまり諦めようと努力すること自体が「道」に外れた余計な行為であると考えたのである。仏教は「どのように諦めるか」を理論的に詰めようとした。そのために「空」であるとか「縁起」であるとかの精緻な論理を積み上げた。しかし結局はそれによっても「苦」からの完全なる解放を得ることはできなかった。結局のところ本来「苦」である人生に更に「苦」である修行を重ねることになってしまったのである。そうした有為の努力を拒否した仙道の方がシステムとしては優れているのかもしれない。
釈迦の教えの根本は四つの「諦=真理」つまり「四聖諦」にある。これは「普遍的な真理」とされているが、そうである必要はなく「方法としての真理」であれば良い。そう思えば「苦」から一定程度は解放されることになる、といったものとした方が良いであろう。釈迦は、人は満たされない思い(苦)を持っていることに気づいた。そして、それは積み重なるとストレスとなる(集)。「苦」も、それが解消されて行けば、特段の問題とはならない。しかし、それが積み重なってストレスになれば心身に大きな負担を生じる。この気づきは実に優れたことで心身の不調が、ストレスによることには最年になってようやく認知されるようになったことである。ストレスが生じるのは、全て生存欲であり、ストレスとは「満たされない生存欲の集合体」なのである。そうであるなら、それにとらわれなければストレスは無いことになってしまう(滅)。死へのストレスは、いくら延命が可能であっても逃れることはできない。例え永遠の生命が保障されたとしても、やはり「不安」が残ってしまう。ストレスを解消するには「それが仕方がないと思い込むこと」である。こうしたプロセスを釈迦は見出した(道)のである。
「この世には不可能なことがある」これが「この世の法則」なのである。ここにおいて仙道も仏教も、その基盤を同じくしている。現在、仙道で多く修行者の居る伍柳派の柳華陽は『仙仏合宗』を著しているが、これは仙道は肉体を整え(命)るもので、仏教は精神を整え(性)るのに優れているとして「性命双修」の観点から仙道の修行者にも、仏教の修行者にも、互いに他派を知ることが有益であるとするものであるが、これでは「仙仏合宗」論としては不十分である。あくま仙道と仏道の根本的な部分での合一でなければならないであろう。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
天の道が、弓を張って構えている時に働くと次のようになる。標的に対して高く構えてしまえば、これを抑えるし、低く構えてしまっていれば上へと調整する。つまり、やり過ぎていれば、それを削り、足らなければ、それを補う。天の道とは、余っていれば、これを除き、足らなければ、それを補っているわけである。しかし人の道は、そうではない。足りないところを削り、余っているところに加えてしまう。このようなやり過ぎの状況であれば、どうして余裕が生まれるであろうか。天下の「道」を奉じている者は、
【古いテキストでは「つまり余りあるのを損して、足りないのを加えることが出来ているのは、まさに天下に「道」があるからである」とある】
このように、やり過ぎを行うことはないのである。聖人は行為をしても、それにとらわれることがない。功を成しても、気にしない。そうであるから何か自己に有利なことを求めたりはしないのである(第七十七章)。
天下に水ほど柔弱であるものはない。堅く強いものは柔弱な水を攻撃しても、それを負かすことができない。どうしようもないのである。つまり柔は剛より優れているのであり、弱さは強さに勝るのである。こうしたことを知る人は天下に居ない。また、それを使うことのできる人も居ない。そうであるから聖人は「国の穢を一身に受けているのが、(至聖とされる)神官の長であり、国の不祥を一身に受けているのが、(理想の人とされる)天下の王なる人物なのである」と言っている。
まさに聖人は「真実の言葉は反対のように受け取られる」と言っている(第七十八章)。大いなる怨みと一体化すれば、必ず怨みが残るものである。単に善であることはないのである。
【「真実の言葉」は人が好んで受け入れられるものではない。それは自分の思っていることと合っていないように思えるからである。「怨みと一体となる」と言うのも、(怨みを撲滅できている状況ではないので)また好ましいとは思えない。和するだけでは怨みは終わらないからである。これら二つは「完全なる状況」ではないので、どうしても全く善いものとして受け止めることができないのである。ただ、ここに聖人が民を化する道がある。聖人は道を説くものの、決して他人に(「完全」を求めて)強要することはないのである】
そうであるから聖人は約束を違えられても、相手にその責任の全てを問うことはない。約束において、それが履行される原因は相手だけになるとは限らないからである。
天の道は、それをよく知ることはできないが、常に善人と共にある(第七十九章)。
小さな国で住む人も少ない(のが良い)。
【太古は多くの国があったが、いずれも小国であった。それから多くの国が作られ、大周が建国された。周は五百里と四百里の国であった。国は大きく、人も多かった。そうした大国では太古の聖なる治世を行うのは困難であった。そうであるから老子は国は小さく、人口の少ないことを良しとしていたのである】
多くのものがあっても、それを用いることはない(のが良い)。民は(生の快楽だけに目を奪われるのではなく)死にも思いを致している(のが良い)、あえて遠くに行こうとも思わない(のが良い)。舟や車(のような便利なもの)があっても、それに乗ることがない(のが良い)。軍隊があっても、それを展開することはない(のが良い)。民をして文字を使うのではなく、太古のように縄を使って情報交換をさせる(のが良い)。どうして美味なる食事、美しい服を良しとすることがあろうか。普段の暮らしを愉しみ、見えている隣の国から鶏や犬の鳴き声が聞こえたとしても、民は生涯、交流を持つこともない(のが良いのである)(第八十章)。
真実の言葉は聞き良いものではない。聞き良い言葉は真実ではない。真実を語るのに贅言を用いることはない。贅言を用いるのは真実ではない。よくものごとを知っている人は自分の知っていることの限界を分かっている。よくものごとが分かっていない人は、自分の知識に限界のあることを分かっていない。
聖人は自己の行為にこだわることはない。そうであるから他人の為にいろいろなことをしてしまう。つまり人の為にしようと思ってしているのではなく、やるべき行為をしているプロセスの中に他人が関わっているだけであるのである。
天の道は、人を利しても害することはない。聖人の道も、何かを為しても、他人と争うことはないのである(第八十一章)。