道徳武芸研究 「球」と「たま」〜孫禄堂と植芝盛平〜
道徳武芸研究 「球」と「たま」〜孫禄堂と植芝盛平〜
孫禄堂は太極拳、形意拳、八卦拳を「球」に例えている。それは「皮球」「鉄球」「鉄糸球」であり、孫がそれぞれの拳をイメージしたものである。ただ太極拳は「皮球」に代表されるような柔らかさや浮遊感のあるものに限られているわけではない。こうしたイメージは孫が三拳を共通するものとして練習することを前提としている。孫はこれらをひとつのシステムとしてとらえていた。全てを「球」をベースにしているのは、そうしたためである。こうしたこともあって現在では孫の伝えた三拳を「孫家拳」と称する。一方で、孫家拳においては、それぞれが特徴を失っていると批判されることもある。
近代中国では門派の閉鎖性の弊害が説かれていた。個々の門派が余りに秘密主義であったことが、あるべき発展を阻害したと考えられていたのである。これは中国における特に自然科学の未発達を前提としている。16世紀あたりまでは西洋を凌駕していた中国の科学文明は近代になると大きく立ち遅れていることがアヘン戦争などの軍事衝突によって明らかとなる。その結果、いろいろな分野で文化的な閉鎖性の打破が叫ばれるようになったのである。孫は武術における閉鎖性を打ち破る方途として先天と後天を考えた。確かに後天の肉体を用いて表現される「技」には、大きな差異があるが、それを成り立たせている内面の先天の「意識」にあっては等しく共通していると考えたのである。そしてそれは「動=技」ではなく「静=意識」であるとして孫家拳を編んだのであった。「静」を成り立たせるには「柔」である。また、それは「簡易」である必要もある。つまり孫のイメージしている「球」とは先天の世界である「意識」のレベルなのである。折口信夫は古代日本人は「魂(たま)」を「球」としてイメージしており、そのために霊魂を「たましい」と言うようになったとしている。これは「曲玉(まがたま 勾玉)」のイメージでもある。「曲玉」は「曲がり玉」であり、その「尾」の曲がった形状からして「曲玉」と称されるのであるが、曲がっているのは「運動」を示すもので「たま(魂)」が運動していることを表しているわけである。つまり「曲玉」は「運動する球=魂」のイメージなのであり「魂は運動している」のである。
孫の「球」のイメージと共通するものとして形意拳には「滾勁」がある。「滾勁」を唱えたのは黄柏年で、自身の学んでいた形意拳に、新たに八卦拳を加える時、その共通する動きとして「滾勁」があるとしたのである。「滾勁」は水が沸き起こるようなイメージの動きであり、それは「下から上」「上から下」への循環でもある。つまり「滾勁」のベースにあるのは形意拳の根本である「起落」の動きが生み出す「球」のイメージにあったのである。こうした考え方からすれば形意拳は「起落」の縦円の動きとなるのであるが、これを八卦拳の旋転する螺旋の動きと融合するには、螺旋の動きを「球」における斜めの上下の動きとしなければならない。形意拳で「起落」としているのは単なる上下(直上、直下)だけではない斜めの動きを含んでいるからなのである。こうした斜めの運動を孫は「鉄糸球」とイメージしているわけである。孫家拳では形意拳を縦円、太極拳を横円(孫派に特徴的な両掌を胸の前で開き合わせる動作に見られる)、そして八卦拳を斜円としたわけである。
すでに述べたように、これらのイメージは後天の肉体の動きではなく、先天である内面の意識(球=たましい)の動きの表れなのである。こうした運動する「魂(たましい)」のことを植芝盛平は勝速日(かちはやひ)としている。「日」は「霊(ひ)」のことであり、勝速日も「運動する魂」のことであるわけであるが、これが「どのように運動するか」を知る上で、孫の三つの球は実に有益なのである。つまり皮球は「引力」、鉄球は「三角体」、そして鉄糸球は「呼吸力」に相当すると考えられるわけである。皮球は柔らかく、それを押すと凹んでしまう。これは「相手の力に逆らわない」ということであり、かつまた「中心を取らせない」ということでもある。皮球を押しても転がって行くだけで潰されることはない。こうした相手の力を受けることを「引力」と称している。一般的な攻防において相手の力は遮られなければならないのであるから、そこには「引力」ではなく「斥力」が働いていなければならない。つまり「引力」を働かせるには相手の力を遮断するのではなく、丸く受け入れなければならないわけで、それが球のイメージにつながるのである。
ただ相手の力を丸く受けるには自己の中心軸が確立されていなければならない。沈身(安定)が出来ていなければらないわけである。これを盛平は「三角体」と称していた。いわゆる「半身の構え」である。形意拳ではこれを最重要視している。合気道が「剣の理合」とされるのは「三角体」がその基本であるからでもある。こうした安定して動くことのできる体勢作りが出来ていると、相手の力を丸く受けて導くことが可能となる。そして相手の力を導くには縦の円(立円)と横の円(平円)そして斜めの円があるが、そうした一定の丸いラインによって相手の力を導くのが「呼吸力」である。『荘子』(養生主篇)に包丁の話があるが、ものを切るにしても、力を運用すべき「最適のライン」がある。これは力を導く武術においても同様である。鉄糸球の「糸」とは、こうした力のラインのことなのである。
植芝盛平が「勝速日」とし、黄柏年が「滾勁」としていたことを孫禄堂は三つの球として表現した。しかし、それらは内面にあっては同じ力の働きをいうものであった。なかなか内面の働き(意識の働き)を語ることは難しい。しかし過去の優れた見識を複数参考にすることで意外なことが見えてくる。「丸い動き」は人の精神の根源に由来するものであり、そうであるから、そうした動きをなぞる太極拳や合気道は、後天的なストレスを解消するものとして多く受け入れられているのである。