丹道逍遥 文始真経(四符篇六〜十)静坐秘伝「心息相依法」
丹道逍遥 文始真経(四符篇六〜十)静坐秘伝「心息相依法」
感情と呼吸とが深い関係にあることは言うまでもあるまい。極度な不安や喜びなどにより、呼吸は大きく乱れることがある。こうしたことから扱い難い感情や意識ではなく、呼吸を制御することで心を鎮めることが模索されている。
よく知られているのは禅宗の数息観(呼吸を一から十まで数えることを繰り返す)であろう。仏教で釈迦の頃の瞑想法とされるのが「安那般那(アナバンナ)」であるが、これは呼吸に意識を置くだけである。これはマインドフルネスを通して知られるようになって来た。こうした方法は呼吸だけを注視することで、かえって自ずから心が鎮まるという効果を用いようとしている(雑念を払おうとすると余計にいろいろな思いが浮かんでくる)。仙道では、こうした段階の呼吸を「凡息」とする。「凡息」の段階では心と息とはひとつにはなっていない。しかし、次第に心が鎮まるようになると「真息」へと近づいて行く。システム論的にいえば「凡息」から「真息」に入った時に数息観は不要となる。つまり数息観とは「雑念」に対して別の「雑念(息を数える)」を当てているに過ぎないからである。つまるところ数息観を続けている間は「真息」には至らないわけである。そうであるなら「安那般那」のように息を感じるだけである方が良いであろう。これであれば「真息」の入ると自ずと息を感じるという意識も消えて行く。
「真息」はまた「胎息」と称されるが、これは後天的な欲望によって乱された「凡息」となる生まれる前の「胎児の時の呼吸」であるということである。「真息」が生まれるのは「万境皆寂」「一念不生」「人法両空」とされる境地においてであるとされている。ちなみに「万境皆寂」は「全き静かな心の境地」である。また「一念不生」は「とらわれのある思いの生ずることのない境地」で、いろいろな想念はただ浮かんで消えるだけとなる。これは老子のいう「深淵」にニュアンスが近い。最後の「人法両空」は「自身の感覚にも、瞑想のテクニックにも、こだわらない境地」といえる。特にテクニックを用いる場合には適切にそれを捨てる時機を知らなければならない。
心と息とを合一させる方法としては他に呪文を用いるものがある。これには密教での真言、浄土宗での念仏がある。声に出して呪文を繰り返し唱えることで一定の集中状態に入ることができる。この時には「凡息」ではあるが一応、心と息とは一体となっている。中国仏教では最後に禅と念仏が残ったが、これらは念仏を入門として禅を極めれば瞑想のシステムとしては妥当である。つまり念仏のようば「形にはめる」やり方は「習熟」により、一定程度の心の落ち着きは得られても、真に心と意の一体化や統合には至ることができないとする。それは「一定の状況に固定することで得られる統一状態」であるからである。真息ではあらゆる時、あらゆる状況において、心と息とが一体でなければならない。そのためには遠回りでも、ただあるがままに坐ることが良いわけである。
(参考 蕭天石『道海玄微』)
ここでの『文始真経』は五行説を多用している。基本的な構造は、
「土」意
「金」魄、白、気
「水」魂、黒、識、精
「木」風
「火」神
である。こうして見ると五行の中でも「金」が重視されていることが分かる。これは内丹で「金生水」が重視されるためであろう。つまり「金」は先天、「水」は後天とされ「金生水」は先天と後天の合一を考える上で重要であるからに他ならない。『文始真経』で、そうした先天、後天がどのように意識されていたかは不明であるが、子どもが生まれた時点に「水」である「識」が生じる、とあることからすれば、やはり「水」が先天、後天の分岐点にあると考えられていたとして良かろう。ただこうした形式主義的な展開は中国人の好みではあるが、さほど重要な意味はないとされている。実際に中国人の間でも、知的遊戯くらいに考えられており、こうしたものを偏重するのは迷信であると見なされているのである。
(六)
関尹子が曰れた。
魂は気であるとされている。
魂の白いのは魄である、というのは文字の構成からでもそうである。
(五行説では「魂」は黒で水、「魄」は白で金)
魂は人が死ねば風に変わる。
風は木である。
白は気である。
気は金である。
風は散ずる。それは軽く清いからである。
軽く清ければ天に上る。
金は堅い。
そうであるから重く濁っている。
重く濁っていれば地に入る。
軽く清いのは魄である。
魄は魂によって天へと上る。
重く濁っているのは気である。
気は魄によって地へと降る。
仁があれば上って木星となる。
義があれば上って金星となる。
礼があれば上って火星となる。
智があれば上って水星となる。
信があれば上って土星となる。
不仁であれば沈んで木賊となる。
不義であれば沈んで金賊となる。
不礼であれば沈んで火賊となる。
不智であれば沈んで水賊となる。
不信であれば沈んで土賊となる。
魂と気が半々であれば、この世に留まる。
魂は昇って貴くなり、
気は降って賊となる。
霊気は賢となり、
レイ(がんだれに万)魂は愚となる。
軽い魂は明らかとなり、
重い気は暗くなる。
浮いている魂は羽となり、
重さのある気は毛となる。
明らかな魂は神となり、
幽(くら)い気は鬼となる。
その形、その居るところ、その識るところ、その好むところは、
全て五行に関係している。
五行という数は、すべてに当てはまるものである。
限りなく多くのものが天地の間に満ちているが、
すべては五事、つまり五行に帰するのである。
五行は五虫でもある。
(羽虫、毛虫、介虫、鱗虫、裸虫)
それは(甲虫である)亀の甲羅や蓍(めどぎ)を使った占いでも、
至誠そのものであれば、これは五行に帰することになる。
誠をもってすれば、すべからく五行と一致することになる。
聖人は人体をして、この世に居るが、聖人であっても人体は五行の範囲を出ることはない。
(占いに用いる亀の甲羅や植物の蓍「めどぎ」は全て五行に含まれているので、それらを通して五行つまり宇宙全体に通じることができる。それが占いの原理であるとする)
(七)
関尹子が曰れた。
五行には魂も含まれている。
魂は識であり、
目は精であり、
色は神であり、
これらの働きがあるのは魂があるからである。
耳、目、鼻、心は魂があるから働きがあり、
こうしたところから愛が生まれ、愛は精(水)に通じている。
父から生まれるのは神である。
母から生まれるのは愛である。
これらは異なっているが、これらの全ては識によって働いている。
識はその一端は父からの神による。
それは気を父から受けて生まれているからである。
気(金)は水となる。
(五行説では金は水を生む)
これは母においては血であり、
血(水)と火は関係している。
(五行説では、水は火を消す)
父が居て、母が居て、
それらから気(金)と血(水)を受けて人は生まれる。
(父から気を受け、母から血を受けて人は生まれる。これは五行説の「金生水」である。「水」はまた識でもあるので、気と血を受けて生まれた時に人は識「感情」がある)
こうした生成の働きは男女の愛によるものではない。愛という感情(識)がなくても、その生成の働きは鎖のようにつらなっているのであり、灯火のように照らし照らされているのである。つまり「識」は生まれた後に働くのであり、自己に識がなければ自分が生まれたという自覚も得られないであろう。
(「金生水」は自然の働きであり、そこに人為的な意図は必要ない。男と女が交われば子が生まれるということに感情は直接には関係ないとしている。こうした中で感情である「識」が関係するのは「金生水」で水つまり「識」が生まれた時で、「金生水」に関係する感情、つまり「愛」といったものは生まれた後の新生児の「識」においてのみな顕現するものなのである)
(八)
関尹子が曰れた。
撥のようであり、
鼓のようでもあるものがあるとして、
鼓の形は見れば分かる。
鼓の音はどんな音かはイメージすることができる。
撥を使って音を出せば、余韻が残る。
撥は使っていなくても音は残っている。
鼓の形は、人であれば精(水)である。
鼓の音は、人であれば神(火)である。
余韻は、魂(水)とすることができよう。
気(金)がこれに交われば余韻が続くことになる。
つまり、余韻は五行でいえば気の働きなのであり、
自分がどうこうして余韻が生まれるわけではない。
(余韻「水」は気「金」と関係することで生まれる。これは「金生水」である。気である空気・空間がなければ余韻は生じない。)
(九)
関尹子が曰れた。
果物が育つには、
水、火、土が必ず関係している。
これら三つがなければならない。
これら三つがあるから果物は育つのである。
これらが揃わなければ、
水が足りなかったり、多すぎたり、養分のない土壌であったりすることになる。
こうしたところでは何も育たない。
精は水であり、
神は火であり、
意は土である。
これら三つは自然には交わることがない。
しかし、人にあってはひとつになっている。
これらのバランスを保つことができなければならないのであるが、
それには精、神、意を意図的に用いる「術」がなければならない。
そうなれば、よく無から有を現すことができる。
(果物を育てるのも、人体を育てるのも同じ仕組みである、ということである。それには一定の「術」が適切に用いられなければならない。ただ果物を得るといった目的がなければ「術」は必要ない。つまり特殊な能力を得ようと思わなければ、ただあるがままで良いわけである)
(十)
関尹子が曰れた。
魂は「木」である。
「木」は冬の根であり、
「水」は夏の華である。
そうであるから
人の魂(水)は夜に精(水)を蔵している。
昼に神(火)は精とひとつになっている。
こうした中に見るべきは、
精と一体となる前の神である。
そこに見られるのは、神がいまだ自己に属していない時の神である。
(「水生木」であり、水は木を育てる。夏の華と冬の根は循環して木々は成長する。人の「夜」は植物では「冬」にあたる。この時、魂「感情」と精とは共に「水」であり、融合しているので性的な感情が芽生える。一方、昼間は神と精が働いている。これは「水克火」であり、精の働きが「感情=神」を抑えようとしている。昼間は性的なことに抑制的であるのは、こうした働きによるわけである)