道徳武芸研究 金陵八卦掌故事(3)董海川に聞く〜八卦掌の謎〜
道徳武芸研究 金陵八卦掌故事(3)董海川に聞く〜八卦掌の謎〜
袁子府は『金陵八卦掌』の中で、八卦掌の謎を「董海川」に聞く、という問答の形の章を設けている。もちろん、これは全く歴史上の董海川には関係ないのであるが、ここで袁は八卦掌の「根本」を考えようとしている。
問「八卦掌とは結局のところ何なのでしょうか」
董海川「我が墓碑には弟子として56名が挙げられているが、他にも数十名の弟子が居た。彼らに聴きなさい」
問「八卦掌は見たところ、どれも似ています。しかし動きはそれぞれで違っています。誰に本当のところを聞いたら良いのでしょうか」
董「八卦掌を伝えている者の練っているのは、自分の教えたものである。しかし、彼らが教えているのは彼らの理解したものである。どれが間違っているということはない。変化していると考えるべきである」
問「八卦掌を教えているお弟子たちと、董先生の八卦掌はどうして違っているのですか」
董「彼らと自分とは全く同じではない。動きが変わるのは当然であろう」
問「お弟子たちの教えている八卦掌は良いものでしょうか。先生の八卦掌はどうでしたか」
董「良いよ!我が八卦掌も間違いのないものである!」
ここに見られるのは学習のあり方の違いである。中国武術では入門である「拝師」を最も重視していた。しかし現在の学習では卒業を重視する。例え大学に入学しても中退してしまえば学歴は高卒となる。特に欧米では一定の課程を履修して「(卒業)資格」を取ることが大切で、それがなければ何も出来ないことがある。中国武術では、基本原則を会得していれば「拝師」が許される。その後の境地は個々人の理解と修練によって開かれて行くべきであって決まった「到達点」というものはない。そうであるから「卒業資格」はないわけで、これは日本の免許皆伝などとは違っている。
ここで「董海川」は走圏を最重要視しているが、これは八卦掌一般の考え方でもある。
問「八卦掌では、いろいろな走圏が見られますが、走圏はそれ程、重要なものなのですか」
董「重要である!ひじょうに重要である。どのような動きであっても走圏があれば八卦掌であると言えるが、走圏がなければ八卦掌と言うことはできない」
問「私はかなり長く走圏を練習しているのですが、特に功夫がついたとも思えません。どのように練れば良いのですか」
董「とにかくやること。やっていれば分かって来る。やらなければ分からない」
佐藤金兵衛の『八卦掌』には王樹金の教えとして、ここにあるようなことが紹介されているが、その中で王樹金が「のっし、のっしと歩く」と教えていた、とあるのは面白い。これは古い仏典の『四十二章経』に「仏言(い)わく、諸(もろもろ)の沙門の道を行ずるは、まさに牛の負うて深泥(しんでい)の中を行く」とあるのを思い出させる。つまり修行とは重い荷物を負って深い泥道をひたすら歩む牛のようであれ、としているわけである。八卦掌では走圏の時に「ショウ泥歩」を用いるが、これは泥の中を歩くように、と教えられる。ひたすら走圏を練る姿は『四十二章経』の説いている「牛」に例えられる修行者の姿と重なるように思われるのである。
問「掌で一打して相手を遠くに飛ばす、というのは、優れた功夫と言えますか」
董「言えない!これは掌で一打して自分が飛ぶ、というものでなければ、優れた功夫とすることはできない。私が掌を出すのは相手を打つのではなく触れるだけである。そうであるから門弟たちは、これを『壁に絵を掛ける』と言っている」
問「それは先生の言われる自分が飛ぶ、ということなのですか」
董「そうである!八卦掌を使って試合をするとして、相手を打つのはレベルの低い使い方である。私はそんなことはしない。考えてみなさい。相手を打って自分が飛んで離れてしまえば、戦いはそれで終わることになるのではないか」
問「そのような高いレベルの技を会得していた方は何人くらいおられますか。今では居ないようです。どうしてでしょう」
董「昔の人は生涯を通してよく練習していたものである。今の人はただ効率的にのみ練習しようとして、長く時間を使うことを好まない。昔は時間や効率などは考えないで、ひたすら練習をしたものである」
最後には「ひたすら練習をする」とはどのようなことなのか、が問われている。重要なことは、ひたすら円周上を歩くことで「心」を練る段階に至るのが重要であるとする。そして「心」が「空空洞洞=無」となって行くことで自然と一体となり高い功夫が得られるとするのである。またこれを「法輪を転ずる」ことと等しい行為ともしている。つまり法輪を転ずることで、あらゆる囚われから脱することが可能であるとしている。
袁はここで走圏の重要性を説いているし、王樹金も同様であるのであるが、これが「心」を練るであったたり、「のっし、のっし」と歩くということだけでは、なかなか、深い境地は得られないであろう。それには動きの原理としての扣擺歩(入り身)や沈身(のっし、のっし)などが明確に意識されていなければならない。
また、ここでは「自分で飛ぶ」ということにも触れられている。これは「印打」であり「硬手」のことでである。八卦掌では相手の攻撃を受けて、受けきれない時(必ずしも自分で飛ばなければならないわけではない)はそのまま跳ね飛ばされてしまっても構わないと考える。つまり「跳ね飛ばされる」と他律的に捉えないで、「跳ね跳ぶ」と自律的に捉えて、攻撃をかわすことができた、とするわけである。秘伝では跳ね飛ばされた勢いを逆に利用して反撃する方法もある。
以上で袁が述べているのは八卦掌の奥義とすることのできるもので、中国武術を考える上でも重要な情報が含まれている。
参考 袁子府『金陵八卦掌』