丹道逍遥 文始真経(四符篇三〜五)静坐秘伝「虚心実腹法」
丹道逍遥 文始真経(四符篇三〜五)静坐秘伝「虚心実腹法」
これは老子の「その心を虚にして、その腹を実とする」(第三章)とあるのによっている。心は精神であり、腹は肉体に属している。この二つが修行の要としているわけである。往々にして宗教的な修行法は精神だけを重視するような傾向があるが、それは仙道とは大きく違っている。仙道において精神と肉体を共に重視することは後には「性命双修」と言われるようになる。ヨーガも始めのラージャ・ヨーガの頃は精神に偏重していたが、後にはハタ・ヨーガのように肉体の調整をも重んじるようになった。一部の中国の研究者はインドには精神偏重の風土があることから「ハタ・ヨーガは導引の影響を受けている」と説く人も居る。「性命双修」の伝統の中で修されていた導引は後には武術ともなった。これは中国人の合理的考え方によるもので、どうせ体を動かすのであれば健康だけに資する導引よりも、健康と護身にも使える武術の方が良い、とされるようになったわけである。
「虚心」とは瞑想にテクニックを用いない、ということである。それが「虚」の意味でもある。心身の調節は「身」の方をもって行う。気血の流れが整えば自ずから精神もあるべき状態へと戻る、と考える。このため「雑念」という捉え方はしない。いろいろな思いが浮かんでも、それに係わらないようにすれば良い。ただ心を「虚」にして、あらゆるものを受け入れるわけである。もちろん便宜上、仙道でも多くの瞑想テクニックが考案されたが、そうしたものを強く拒否する文始派は、こうした点において「老子の真伝」と称されるわけなのである。
(参考 蕭天石『道海玄微』)
(三)
関尹子が曰れた。
精は水である。
気は金である。
神は火である。
魂は木である。
精は水の働きを持つ。
気は金の働きを持つ。
金は水を生む。(また水は木を生む)そうであるから魂(木)は精(水)の中に含まれている。
神は火の働きを持つ。
魂は木の働きを持つ。
木は火を生む。そうであるから魂(木)には神(火)が含まれている。
ただ火は物質であり、よく金を融かすことができる。その力はよく木を燃やして焼き尽くす。
そうであるから(神である意識の働きは明らかであるが)魂や気の働きをよく知ることはできないのである。
ただ(先天の)精は、
天にあっては寒さとなる。
地にあっては水となる。
人にあっては(後天の)精となる。
(先天の)神は天にあっては熱となる。
地にあっては火となる。
人にあっては(後天の)神となる。
(先天の)気は天にあっては燥となる。
地にあっては金となる。
人にあっては魂となる。
魂は天にあっては風となる。
地にあっては木となる。
人にあっては魂となる。
ただ我が精は天地・万物の精と同じである。
それは、あらゆる水がひとつであるのと同じである。
(先天の)水は我の神でもあるのであり、天地・万物の神と同じである。
それは、あらゆる火がひとつの火であるのと同じである。
火は我が気を生むが、それは天地・万物の気と同じである。
気は物質となり金となるが、金はどのような種類の金(属)とも融合することができるのであり、
金を融かせばひとつの合金となる。
我が魂は、天地・万物の魂と同じである。
それは、魂が物質となった木と同じであり、木は違う木であっても接木ができるのと同じく等しいのである。
木も天地・万物の精も我が精も、我が神も、我が気も、我が魂も同じなのであり、
死んでまた生まれているものでもある。
(四)
関尹子が曰れた。
五行の運行は、
精(水)により魂(木)が働いている。
(注 五行説の「水生木」)
魂(木)により神(火)が働いている。
(注 五行説の「木生火」)
神(火)があるから意(土)がある。
意(土)があるから気(金)がある。
気(金)があるから精(水)がある。
こうして五行は循環して止むことがない。
しかし我が心は循環を認めず、執着を持ってしまうものである。
五行は流転して造化の働きをしている。
億万年の間そうして運動していて極まることがなく、
生成が起こっている。
それがどうしてそうなっているのかは分からない。
天地がどのように大きくても、
それだけで植物の芽を生じさせることはできない。
それには、どうして種から芽が出るのかは分からないが、
種がなければならない。
あらゆる動物もオス・メスが交わらなければ生成の働きは起こらない。
こうしたことが我に生じるには、
こうした生成の働きが我の中にもあるからである。
オス・メスが交われば、すぐに生成の働きが生じる。
こうした物質的な変化を通して、我も生まれた。
それが無ければ我が生まれることはない。
つまり五行は物質的な関係性がなければ、どのようにも変化もすることはないのである。
(五)
関尹子が曰れた。
俗人は、気(金)をして魂(木)を統合している。
(金は木を克するので)金の働きが盛んであれば木を滅ぼしてしまう。
聖人は魂(木)をして気(金)を動かしている。
(金と木とは関係がないので)木の働きがいくら盛んであっても金に影響することはない。
気は魂を蔵している。これらはひとつのものであり、
魂が昼に働くのは目や鼻である。
夜に働くのは肝である。
魂が目にあればよく見ることができる。
魂が肝にあればよく夢を見ることができる。
あらゆる魂はひとつであり、その働きを分けることはできないが、
これを分ければ、天地を認識するのも魂の働きによっている。
夢を認識するのも魂の働きであり、これと天地を認識する働きを分けることはできないのであるが、
あえて分けるとすれば認識の対象が天地では「他」にあり、夢では「己」の中にある、ということになる。
土は金を生む。
そうであるから、
意は気を生む。
神の働きは普遍的であるので、その働きがあっても神そのものの働きを見ることはできない。
意の働きは普遍的であるので、その働きがあっても意そのものの働きを見ることはできない。
気の働きがあるところ、ただ聖人は、
我に固定した「我」がないことを知っている。
物に固定した「物」がないことを知っている。
それらは全て思にによるものである。
全ては思いの中でのことであり、
あらゆる物は、思いの中で生滅をしている。
それは「性」(本来の心の働き)のみによるものではない。
「性」により心は働いているが「性」そのものは心の働きの前にあるものである。
心の働きが無ければ意思も働くことはない。
火の働きが無ければ土も生まれない。
(注 五行説では「木は火を生む。火は土を生む」とされている。木が燃やされて灰つまり土が生まれるということである)
意識の働きがなければ気も動かない。
つまり土(意)がなければ金(気)もないわけである。
すべてのものは関係性の中にで生まれているのであり、ひとつのものだけで存在し得ているのではない。
五行の区別がなくなれば天地・万物はひとつとなる。
つまり魂(木)に収斂される。
そうなれば天地・万物と一体となる。
万物は気(金)である。
およそ造化の働きは、全て我が魂(木)と関係している。
そうであるから造化は、すべて我が気(金)によっているのであり、
からあらゆるものは我と一体なのである。
(注 あらゆる存在は「気」で出来ている。そして、それを認識するのは「魂」の働きである。「気」は「魂」を生む。そうして見ると、あらゆることの根源は「気」であることが分かる。気は精を生み「金生水」、精は魂を生む「水生木」であるから、その元は「金」である「気」となる)