道徳武芸研究 陰打と雷声〜失われた「寸勁」の秘密〜
道徳武芸研究 陰打と雷声〜失われた「寸勁」の秘密〜
八卦拳には「陰打」なるものがあるとする。それは相手から打たれることで、反対に相手にダメージを与え得るという不思議な打法であるという。また「雷声」は形意拳で近代になって失われたとされるもので、半歩崩拳で無敵であった郭雲深はそれを嘆いていたという。ただ失われたとされる「雷声」については具体的にどのようなものか判然とせず(掛け声や踏み込む足の音など)、いろいろな議論がある。
八卦拳の「陰打」は正しくは「印打」であるが、それが誤って伝わった。「陰打」なる発想は「陽打」に対するものとして考え出されたようである。「陽打」は普通の打法であり、これは相手を打つことで破壊力を与えようとする。これに対して「陰打」は、相手に打たれることで破壊力を与えようとする打法とされる。つまり一般的な打法である「陽打」と反対の打法が「陰打」ということになるわけで、こうしたことが語られるのは中国人によくある形式的な思考を重んじる傾向によるものである。「陽打」があるなら「陰打」もあるであろうし理論的には「陰打」は「陽打」の反対であるべきであるから、相手に打たれることで相手にダメージを与える打法ということになったのであろう。
「陰打」については八卦拳の孫錫コンについて次のようなエピソードがあるという。ある日、試合をした孫は相手からひどく打たれて瀕死の状態で戻って来た。しかし相手は数日後、吐血をして亡くなってしまった。人々は孫が「陰打」を使ったことを知った、というのである。もちろん、これは真実ではない。「陰打」は正しくは「印打」であることは既に触れたが「印打」とは簡単に言えば「寸勁」のことである。「寸勁」は3センチくらいのごく近い距離から打って相手に一定のダメージを与える打法で、これは普通に打つ(尺勁)程、強くはないが、相手を思ってもみないタイミングで打つことができるので、意外性があり、意識の混乱を招くには有効な打法とされている。これは日本の武術でいうならば「当身」に相当するものである。寸勁の有効性はその破壊力にあるというより意識の混乱を招いて次に有効な打撃を与えることに実戦性があるわけである。
「寸勁」は日本でも知られるようになっているが、普通に打つより更に大きな破壊力を持つとか、内臓をのみ傷つけることができる、経穴を打つ方法である等、それぞれにイメージが持たれているようである。「寸勁」そのものは「3センチくらいのところから打つ」ということに尽きるのであるが、その前後の動きは、ひとつに限定されるものではない。例えば、ブルース・リーが行っていた「ワンインチパンチ」も、そのひとつの形である。ブルース・リーの場合は「寸勁」を打ってからさらに大きく押し込んでいる。これは「寸勁」を終始3センチだけしか動いてはならないと考えている人には違和感があるかもしれない。しかし「寸勁」の後に更に押し込むことは有効であるし、その使い方として中国ではよく見られるものでもある。ブルース・リーの「ワンインチパンチ」は「寸勁」により相手のバランスを浮かせて、さらに押し込むことで大きく体勢を崩している。
八卦拳の「印打」は、一見すると普通に腕を振り回して打っているように見えるかもしれないが「印打」は、相手の体に触れた時に、瞬時に力を集中させる。それは入身の歩法による勢いを利用する。「寸勁」を発して相手の混乱を誘った後には、さらに変化をして攻撃をするのであり、ブルース・リーのようにそのまま押し込むことはしない。印鑑を捺すと反発力を感じるが「寸勁」を打った時に生じる、そうした反発力を利用して次の攻撃へと変化をするわけである。そうしたことを以て一般的な「寸勁」ではなく「印打」としている。
こうした「寸勁」を練る方法としては「フン」「ハッ」の発声を用いることがある。「フン」は体のテンションを高めることで力を集中させようとするやり方であり、「ハッ」はリラックスした状態で力を集中させようとするものである。要するに「寸勁」は短い距離の間で急速に加速することで力を生み出そうとするのであり、その方法として緊張によるものとリラックスによるものがあるわけである。通常の打法の距離(尺勁)をベースとする少林拳などでは「寸勁」の打法は短打(短捶)とされていることが多いが、そこでは「フン」の方が主となり「拳」が多用されている。またリラックスをして行う太極拳などでは「ハッ」がベースとなり「掌」が多く用いられる。
太極拳の攬雀尾は太極拳の「総手」といわれるのであるが、それはそこに太極拳の発勁の全てがあるからに他ならない。つまり「ハッ」は「按」において、「フン」は「擠」で練ることができる。ただ太極拳の核心は、これらにあるのではなく、これらを基礎とした「ホウ勁」にある。ホウ勁を端的に示しているのが攬雀尾の「ホウ」なのであるが「ホウ勁」は単に攬雀尾の「ホウ」のみに用いられるのではなく太極拳の全ての動作に用いられる。これが「整体力」と称させるもので、あるいは「抽絲勁」とも称されるのである。攬雀尾でいえば「ホウ」だけではなく「リ」「擠」「按」も等しく「ホウ勁」によって使われるようにならなければならない。
「フン」「ハッ」は形意拳で「雷声」と称されている。ある程度「寸勁」ができるようになって套路を練る段階になれば、あえてこうした発声をする必要はない。意拳では「試声」という練習段階があるが「フン」「ハッ」を特に意識して練習はされていないようである。
「印打」は八卦拳における寸勁の方法であり、形意拳における「雷声」はその練習法であった。これらは日本の武術でいうところの「当身」に相当する。「寸勁」における攻防においての優位性は「相手の意識の混乱」にある。場合によっては「尺勁」で打った場合のような破壊力ではなく「寸勁」の意外性の方が攻防に有利な時もある。これらをよく知って使い分けることが必要であろう。