道徳武芸研究 「鍛、錬、養」と三つの理〜上達法の「理」〜
道徳武芸研究 「鍛、錬、養」と三つの理〜上達法の「理」〜
中国武術では年齢に応じた練習法として「鍛、錬、養」があるとする。「鍛」は体を鍛える時期で、これは大体、30歳くらいまでであろう。次は「錬」で技術を習得する。これは60歳くらいまでである。そして最後は「養」となり心身の合一を練る。これは90歳くらいまでと考える。ただ、これらは截然と区別されるというより、全ての時に「鍛、錬、養」はあるのであり、そのどれを主とするかを示しているに過ぎない。また年齢の区別は個人の心身の状態によって大きく異なることは言うまでもあるまい。
しかし、これは単に体力、知力の「加減」をいうものではない。八卦拳では「生理、武理、医理」の三つの理を重視しているが、こうしたものと重ねて見ると、これが「上達法」としての側面を有していることが分かるし、その危うさをも示し得ている。つまり心身の適切なバランスの下で稽古を続けることで最終的な「上達」つまり「個々人にとって良い状態」が得られるわけなのであり、それは人の「あるべき生き方」の模索でもあったわけである。八卦拳で教える生理とは「生きる理」のことで、健康で基礎的な体力を得ることのできるような練習がされるべきことを教えている。これは「鍛」の段階ということができる。また「武理」は「武(術)の理」のことで、形を透して攻防の技術を会得する。これは「練」の段階である。そして「医理」は「医(い)やしの理」であり、心身の調和を行えるようにする。
「鍛」には基礎功と基本功がある。基礎功は、どのような運動にも共通するような鍛錬法であり、基本功は特定の武術に応じた鍛錬法である。足を上げるにしても、基礎功では単に「足を上げる」だけであるが、基本功では「蹴り」となる。古い時代には、子どもには遊びを行わせることで基礎功を付けさせたという。
「練」では形の稽古が中心となる。形の練習は中核的な稽古であり、最終的に形は「鍛」と「養」を共に統合するためのものでもある。ただ、形は必ずしも、そのままを墨守すべきというのではない。個々人に応じて微調整をしなければならない。そのため中国では師より「親伝」を受けた、ということが重視される。また拝師弟子が重んじられるわけでもある。これらは形の微調整を受けて、適正な練習をして来たことを示すものでもある。
そして最後は「養」を練る。簡単に言うなら心身の合一を養うわけである。「医やしの理」とは「養生」ということでもある。これは日本語の養生とは違っていて、天地、自然と一体となって生きることを実践することをいう。太極拳で最後は「合太極(太極に合っている)」となるのは「武」から「医」へと入るプロセスを象徴的に表しているわけである。中国武術の上達法は最後には養生へと至る。これは「衛生」と称されることもあるが「生を衛る」ということで広い意味での「護身」ということでもある。平穏に人生を送る「護身」にしても、そを果たすには自然の動きと一致していなければならないと中国人は考えていたわけである。
以上、生涯において、どのようなことに重点を置いて練習するべきか、を述べたが、最も留意しなければならないのは「鍛、錬、養」のバランスである。いかなる時期にあっても、これらのどれかだけを練るというのは好ましくない。一方で「上達法」とされるものにおいては、これらのひとつに特化することで、より速く「上達」することを提唱していることが多い。これはテストに出る問題だけを覚えるようなもので、一見して速く結果が出せるようであるが、結局は50覚えなければならないところを、テストに出る10だけを覚えるようなものであるわけであるから、実際にそうした知識を使う場面ではやはり50が必要となるわけで、そうなって始めて、そうした「上達法」の誤りであることに気づくことになる。こうした「上達法」が数年で消えて行くのは、数年経てば多くの人が偽りだることを感じてしまうからである。
例えば武術では形を覚えたりするより、体力だけを身に付ければ速く上達したように見えることがある。初心の間は、力の強い相手にはなかなか技が掛けられない。数年くらいは体力だけをつけた方が速く強くなれたように思える。実戦カラテを標榜する一派では基礎体力をつけることを特に重視し、ブームにもなったが、空手を習う層は大体が二十歳代前半くらいまでである。高校か大学から始めて数年から十年くらいの間で就職や結婚で、止めることが多い。これくらいの期間であればとにかく体力をつけることが「強く」なる早道であることは確かである。こうした、ある意味では理にかなった練習方法を提示したので一時的にブームになったのであるが、数年を経ると過度な筋力トレーニングの弊害なども見えて来て、ブームも終息してしまった。これは「鍛」の段階だけを強調した練習法ということができる。
あるいは「練」を突出して重視しても、一定の「強さ」を得ることはできる。動きのコツのようなものを教えてもらうと思った以上に力を発揮することができるからである。一般的には形を通して、そうした技術は学ばれるのであるが、形を使うと形自体を習得するのが容易ではない。ただコツだけを教えてもらった方が早く「上達」できるわけである。ただ、そのためには場面を限定しなければならない。どの場面でも、そのコツを使うことはできない。多くの場面で技を使うには、やはり形を通して、いろいろな能力を得ておく必要がある。
他に「養」だけを使って「上達」が得られるとされる場合がある。この段階は「心」と「体=技」との融合を行うのであるが、これをあえて分離させ「心」だけを使うことで、仮想的な「融合」「統一」状態を演出できるわけで、これをして「上達法」とする。例えば、相手を倒すには「倒そう」という「心」と、それを可能にする「技」がなければならない。これを「倒そう」という「心」だけを示すことで、相手はそれを「技」を通すことなく受け取って倒れてしまうように訓練付けるのが「養」の段階の偽りの「上達法」である。これには現実には起り得ない反応も繰り返して練習し続けると、条件反射的な関係性が出来てしまい、倒されている本人は偽りを行っていると思わなくても「本当に倒れてしまう」ようになるといった弊害も生まれてしまう。当然、こうしたことは、条件付けが為されていない相手には起こらない。ただ「技」を掛けるには「心」の働きである「間合い=タイミング=呼吸」が重要であることは確かで、これを「養」の段階では修練する。この場合「技」が合理的に使われていなければならないことは言うまでもなかろう。
「鍛、錬、養」のベースとなるのは「生理、武理、医理」である。これらを年齢や心身の状態に応じて適切なバランスの下に修練して行かなければならない。安易な上達法を鵜呑みにして、これらの一つのみに偏重してしまうと、誤った道に入りやすいので注意を要する。