丹道逍遥 文始真経(二柱篇 一〜五)五行と八卦、そして「一」
丹道逍遥 文始真経(二柱篇 一〜五)五行と八卦、そして「一」
ここでも『文始真経』には五行思想へのこだわりを見ることができる。また、それは八卦とも関連をもって語られている。例えば(一)にある「昇ろうとして、昇り得なかったのが『木』であり、降ろうとして、降り得なかったのが『金』である」とする部分は五行を八卦の四象と結びつけようとしたものである。つまり「昇ろうとして、昇り得なかった」というのは極陰である「陰陰」に「陽」の生じた「陽陰」であり、「降ろうとして、降り得なかった」とあるのは極陽「陽陽」に「陰」の生じた「陰陽」である。これが「木」と「金」に配されている。ちなみに極陽は「火」、極陰は「水」である。
これは季節でいうなら春は「木」、夏は「火」、秋は「金」で冬は「水」に配されるのでイメージとしても四季と五行は一致しているように感じられる。ちなみに「土」は五行思想では季節の変化の時をいうが、八卦思想と融合すると四季の変化に限らず四季全般に係るものと見なされるようになる。つまり「一」なるものが、ここに見出されるのである。こうした八卦や五行は生活のあらゆるところに配されて中国人の世界観のひとつになって行くのであるが、その中で春は「木」であり、「木」は「肝」であると「春は肝臓と関係がある」と考えられたりすることもなって来る。また「木」は「東」なので「春に東に向いて功法をすることで肝を養うことができる」と言われたりすることもある。しかし、こうした異なる体系の事象を横断的に結びつける(方位は方位だけで完結しているのであり、内臓は内臓だけで完結している)のは正しい理解ではない。五行思想や八卦思想だけではなく干支などをも結びつけて考えることは中国でよく見ることができるが、これらは「あらゆるものに繋がりがある」ということを前提としている。春は春だけで存しているのではなく、肝は肝だけで働いているのではない。あくまで全体が一連のものとして「一」として動いている中での一部という意味で五行や八卦の発想は生まれている。そうであるからここにもあるように「一」ということ「全体」ということが常に繰り返し述べられているのである。
ではなぜ、あえて五行や八卦をいうかといえば、あらゆるところに「道=道理」の及んでいることを実証するためである。そこにあらゆることを網羅する整った体系のあるのを見ることができれば、この世に「一」なる「道」なるものが確かに存することになる。つまり「一=道」なる思想があって始めて五行や八卦の区分けが生きてくるのであり、五行そのもの八卦そのもにとらわれ過ぎると五行や八卦の真に意味することを見失なってしまうので注意が必要である。また、そうした枝葉にこだわり過ぎると往々にして迷信に陥ることにもなる。中国の形式主義的思考法には注意しなければならない。
(一)
関尹子が曰われた。
椀であり、盂(はち)であり、瓶であり、酒器であるが如きものには、
すべて天地(である上下)がある。
占いに使う亀、占いの棒、占いの瓦(瓦の割れ方で占う)、占いに使う模様のある石、
これらは全てよく吉凶を告げるものである。
そうであるのは、つまりそれらに天地や万物の理が備わっているからである。
物には「一=道=理」なるものがすべからく含まれている。
しかし個々の物の形は同じではない。
そうした中に(「一」なる共通する)「道」を見ようとするなら、
個別な物と普遍的な道という相反するものが、そこには存していることを知らなければならない。
そうした個別と普遍のような相い矛盾する中にも通じる「道=理」があるのである。
雌でも、雄でも、等しく「一」なる「道」から生まれている。
雌、雄が生まれて来る時、それぞれは同じではない。
(普遍的な)「形」は(個々の)物質として表れ、
(普遍的な)「心」は(個々の)精神となっている。
そこには(普遍的な)「形」があり、「心」があって、
(個々の)物質があり精神があるのである。
また、それらは「水」であり「火」であるとすることもできる。
「形」や「心」が普遍的であるのは、
それが(あらゆるものに共通する)生命力であるからであり、
これは成長する「木」とすることができる。
(個々の)物質や精神は、それぞれのものであるので、
それは(分断する働きである)「金」とすることができる。
こうしたことで第一に考えなければならないのは「一元の気」である。
「一元の気」から「一物」が生まれる。
物質は「形」にとらわれ、
精神は「心」に迎合する。
これらに見られるのは(「道」そのものではなく)、ただ「道」のシンボルであるに過ぎない。
しかし、シンボルを通して真の「道」を知ることができれば、
それは「中」であることが分かる。
昇れば「天」となり、降れば「地」ともなるのである。
また、それは昇って「火」となり、降って「水」ともなる。
昇ろうとして、昇り得なかったのが「木」であり、
降ろうとして、降り得なかったのが「金」である。
「木」は、これを擦れば「火」を生ずる。これを絞れば「水」を出す。
「金」は、これを撃てば「火」を生ずる。これを溶かせば「水」となる。
つまり「木」と「金」とは「火」と「水」でもあるわけである。
「水」は「精」であり、「精」は「天」となる。
「火」は「神」であり、「地」となる。
「木」は「魂」であり、「人」となる。
「金」は「魄」であり、「物」となる。
こうした生成の中にあって流れて止まらないのが「時」である。
すべてを包み込んでいるのが「土」である。
ただ「土」は生成と共に崩壊の場でもある。
(二)
関尹子が曰われた。
天下の人の数は知れない程である。
人はそれぞれが違っている。
その夢も、それぞれである。
夢には思いが関係している。
天があって、地があって、
人があって、物があって、
そして思いがある。
思いの数も知れない程である。
しかし天地は思いと同じくこの世にあるものとしては同じであるが、
それぞれはまた別のものでもある。
(三)
関尹子は曰われた。
心が棗(なつめ)であるとすると、
肝は楡(にれ)である。
(一般的な五行思想では心は「火」、肝は「木」である。棗は「火」で、楡は「金」である。ために「心=棗=火」は合うが「肝=木」で楡の「金」と合わない。考えるに楡を「木」とするものもあったのかもしれない。おそらくここでは「肝=木=楡」とするのであろう)
自己が天地と一体であるとすると、
悪い夢は「水」であり、
良い夢は「火」である。
天地が自己と一体であれば、
それは離れているようでもあり、
近づくようでもある。
離れるのも、近づくのも
共にある状況である。
(四)
関尹子が曰われた。
天地には、
色があり、
形があり、
数があり、
理がある、
しかし我には、
色は無いし、
形は無いし、
理も無い。
そうして天地や我があるのである。
(五)
関尹子が曰われた。
(生まれて亡くなる者も居れば)
死産で生まれる者も居る。
妊娠されないで生を得ることのできない者も居る。
人であっても、
物であっても、
偉大なる天地であっても、
その生成の秘密を知ることはない。
我々の理解の範囲は限られている。
その理は刃に触れれば切れるのと同じである。