姚姫伝『老子章義』(第二十章から第二十四章)「食母」と「衆甫」〜オカルティストとしての老子〜
姚姫伝『老子章義』(第二十章から第二十四章)「食母」と「衆甫」〜オカルティストとしての老子〜
老子は時に不思議な語を使う。ここに出ている「食母」や「衆甫」もそうであるし、他には第六章に「谷神」や「玄牝の門」なども見られる。こうしたものは当時、信じられていたことなのであろう。そうであるからあえてこれを訳す必要はあるまい。老子はこうした巷間、古くから伝わっているいろいろな信仰も、それは本質的には「道」のことであると言いたいわけである。それらは老子ほど「道」を明確に意識できていない時代のものであるが、老子はそれを明らかに知ることができ得ている、と考えている。そうであるから一見して違うと思われる「食母」や「衆甫」が同じこと(つまり「道」)を指しているとしているわけである。
考えるに「食母」は大地母神のようなものではなかろうか。大地母神の信仰は世界に普遍的に見られる。こうしたものが古代の中国にあったことは間違いのないことであろう。大地母神とは大地の生命力の象徴である。老子の唱える倫理観に「個々の生命力を阻害してはならない」とするものがある。そうであるから戦争には如何なる場合においても反対をする。大地母神は大地の生命力の象徴である。そうした意味において大地母神と「道」とは等しくあるわけである。
「衆甫」の「甫」は孔子を尼甫(じほ)と称する(孔子は名を孔尼と言った)ように「衆さま」のようなニュアンスで「衆」というものを擬人化しているものと見ることができる。「衆」は「多く」という意味なので、これはあらゆるところに存していて、我々に影響を与える鬼神のようなものと考えることができよう。鬼神が生活全般に関わっていることは墨子も述べている。世界的には精霊などがそれに似ているとできようか。こうしたものも「道」が普遍的であり、その合理的な法則はあらゆるところで働いているのと同じと見ることができる。
老子があえてこうした太古から伝わるいろいろな信仰に触れて、それが老子のいう「道」を言ったものであるとするのは、そうした太古からの信仰の秘密を老子だけが知っていることを示すためである。当時「食母」や「衆甫」を崇め祀っている人たちは本当の意味が分かっていないと言いたいわけで、こうした考え方はオカルティストに特有なものでもある。文中にもあるが老子は自分のことを「ただぼんやりしていたり、ただうっとりしていたりするだけである」という。しかし、それは世間の人は「道」を知らないので、そう見えるであろうということであり、本当に自分が無知蒙昧であると思っているわけでないことは文脈からして明らかである。老子は瞑想を通してある種の叡智を得たと考えていた。『老子』全般はこうしたオカルティストの観点から読まれるべきで、そうすることで大いなる発見のあることと思われる。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
(ここは第二十章から始めているが、姚姫伝は第二十章の始めの「『学』びを廃して『憂』いを持つことがないということである」を、先の第十九章に続けていて第二十章と分けている)
「唯(い)」と「阿(あ)」との距離はどれくらいであろうか。
【「『唯』と『阿』の距離はどれくらいであろうか」以下では求道者が実現にどのように対するか、が記されている。それは形而下において「道」がどのようにして表れているか、が示されている。これ以降に述べられていることは求道者の宝であり、老子の実に親切な教えでもある。以下、第二十章と第二十一章をつないでいるが、これらを分けてしまえば真意が失われてしまう】
「善」と「悪」の距離はどれくらいであろうか。人の畏れるところを畏れなければならないことはない。それは一定しているものではないし、永遠なるものでもない。多くの人が気楽であると考えているのは、ただ楽しいだけのことであろう。この世は「大いなる牢獄」であるが、多くの人はこの世を春に高殿に昇るが如くに気持ちの良いものと思っているかもしれない。しかし自分だけは、そうではないことを知っている。多くの人はこの世が「大いなる牢獄」であると感じてはいないのであろう。それは嬰児が子どもとなった自分を想像できないのと同じで、その姿がよく分からないのである。もし結果が無いのと同じであろう。多くの人は皆、余計なものを持っている。自分一人は、そうしたものを持ってはいない。こうした自分の考えは愚かな人と同じで計画性が無いのであろうか。よく分かっていないのであろうか。一般の人は物事をよく分かっていると思っていることであろう。自分だけが愚かなのである。多くの人は先見の明があることであろう。しかし自分は何も見えていないのである。海の風は静かである。そこでは風がないようでもある。多くの人は皆、何かやらなければならないことがある。しかし自分一人は世間に流されないで自分だけで何をするかを考える。それは心が狭い人のようである。自分は他の人と違っていて「食母」を重んじている。孔子の言う「徳」はただ「道」を重んじるところから生まれる。つまり「道」を基準に行動をするのであれば、ただぼんやりしていたり、ただうっとりしていたりするだけである。このようなぼんやりしたり、うっとりしていたりする、その中にはひとつのことがある。ぼんやりしたり、うっとりしたりした中に、あるものがある。しかし、そうしたものは奥深く、見えにくい。その中には精髄がある。その精髄は全く真なるものである。その中には信ずべきものがある。古から今に至るまで、それは「衆甫を見る」という言い方をされている。
【「衆甫」は、古くから聖賢が求めて来たもので「道」と同じである。それは昔の聖賢もこれからの聖賢でも同じく求めるところのものである】
「衆甫」とは以上に述べたようなものなのである。
曲がっているのは不完全な状態ではない。曲がっているものがあるので、真っ直ぐなものがあるに過ぎない。減っているところがあるから一杯のところがあるのである。古いものがあるので新しいものがある。少ないところがあるので、多くあるところがある。多くあれば迷うことになる。そうであるから聖人は「一」を抱くことをもって「天下のあり方」としている。
【「曲」がっているところにも「一」がある。「道」と一体である「一」なる曲がりには、完全なる「徳」がある】
見ようとしないから、よく見える。見ようとしないから、つまりはよく分かるのである。やろうとしないから、結果を出せる。「自分」というものにこだわらないので長く居ることができる。これらの根底にあるのは「争わない」ということである。争うべき相手が居ないわけである。これらと「曲がっているのは不完全な状態ではない」とは同じであり、これは全く正しいことである。他に比べるものがなければ、どのような状態であっても全く不完全とすることはできない。あえて多くを語らないのが自然である。
【自己の「誠」には完全なる「徳」が備わっている。あらゆる存在はここに帰する。それは「あえて多くを語らないのが自然である」ということである。もし、そこに完全なる「徳」がなければ、多くを語ったとしても、それが形になることはないであろう。言うことが適切であれば、その言葉の響きもゆったりとしていよう。言うことが支持され、功績が認められるようになると、人々は「自分は『道』と一体となって自然である」と言うようになる(が、こうなるとこの人は「道」を外れているので「多く」を語っているわけである)。あらゆることが「徳=道」に帰するというのが「あえて多くを語らないのが自然である」ということの意味である】
夜中、吹いた強風が朝になっても止まないことはないし、
【「夜中、吹いた強風」から以下は先にあった「曲がっているものがあるので、真っ直ぐなものがある。減っているところがあるから一杯のところがある」というところと同じことが述べられている。天地の力には窮まるところがある。人はこれを知るべきであろう。多くの人はこれを知っている。つまり「道」や「徳」は自己と一体であるということである。何かを失っても、自己そのものが変わるわけではない。それは曲がっていたり、満ちていないのと同じである。天下の人が皆、楽いと思うのは、それは真っ直ぐであったり、満ちていたりしているのと同じなである】
大雨が一日降っても止まないことはない。これのどういったところが「天地」と等しいと言えるのか。「天地」も永遠に続くのではない、ということである。「天地」でさえ永遠に続くことはないのであるから、ましてや人においては永遠はあり得ない。つまり「道」に従って表れている現象としての「道」は根本としての「道」において示されているのである(あらゆる現象は「道」と一体なのである)。同様に「徳」は「徳」であって、「失」うことは「失」うことである。「道」を得るとはつまり「楽」しみを得ることでもある。これは「徳」を得るのと同じで「徳」を得れば「楽」しみが得られる。これは「失」うのとも同じであり、「楽」しみを得ることでもある。信ずることが足りないのは、
【「信ずることが足りない」から以下は、全て内的な不足を述べている。余りあれば多くの人は惑うことになるのである】
信ずることがないからである。待ち遠しく立ち上がって待とうとする者は、予め立ち上がっていることはない。大股で歩こうとする者は、予め歩を進めてはない。先入観を持って見ようとする者は、正しく見ることはできない。これでは本当のことを知ることができない。自分で行おうとする者は、結果を得ることはできない。自分にこだわる者は長く居られない。「道」にあるとは「余る程の食べ物、余計な行動、それのあるを憎む。つまり「道」にある者は、こうしたことをしないのである」とされているのである。