丹道逍遥 映画「巫女っちゃけん。」に見えるカミ意識

 丹道逍遥 映画「巫女っちゃけん。」に見えるカミ意識

映画「巫女っちゃけん。」は2018年に公開された広瀬アリス主演(しわす役)の映画である。「光の道」で有名な宮地嶽神社がロケ地となっている。しわすは宮司の娘で巫女をやっているのであるが、周囲の人たちが、ただ「因習」に従っているだけのように思えて、外の世界に出ることを希望している。会社を受け続けているが、なかなか受からないままいろいろな出来事を経験して、巫女も良いのではないか、と思うようになる、という話である。


なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる


これは西行が伊勢神宮で詠んだ歌であるが、この歌ほど神社神道をよく表現しているものもあるまい。歌意は「どのようなことがあられるのかは知らないけれど、恐れ多さで涙がこぼれてしまう」ということになろうか。このように神社神道における「カミ」とはそれがどのような存在かは分からないが、何か心に感じるものがある存在なのである。これを本居宣長は「もののあわれ」と言っている。「もの」は霊であり、「あわれ」は「あ!われ!」と霊的な感動が自覚されることである。どうしてそうなるのか分からないが霊的な感動がある。これは神社信仰の基本であると同時に日本人の霊性の特徴でもある。


この映画はこうした神社神道を舞台としている。その上でカミなるものが人々とどのような関係において存在しているのかを、よく描き出している。柳田國男は神社神道について、ただ祭祀を続けているだけであったので、古い民俗を保存することができている、としているが、まさにこうしたところを、この映画では見ることが出来る。カミについて神職らはただ「居る」というだけで、どうして居ると言えるのか、どのようなカミなのかを考えようとはしない。こうしたことをしわすは因習にとらわれている、と考えているようである。しかし曖昧であることで、かえっていろいろな人の思いを受け止めることができていることに気づき「神社」というものの存在意義を知る。そして合格通知が来たのにも係わらす「巫女」も悪くないと思っている自分に気づく。


神道の根本は「自然崇拝」である。そして「民俗行事」としての習俗がベースとしてある。これは各家で行われるもので、水のカミや火のカミなどを祀ることが多く、その中心は女性である。ただ現在はこうした祭祀は行われなくなっている。いま神道としてメージされるのは「神社神道」であろう。「神社神道=神道」とするイメージは、かつての「国家神道」の時代に形成された。戦前、戦中に推し進められた「国家神道」政策は伊勢神宮を頂点にして全国の神社を格付けすると共に神社での儀礼を「習俗」と位置付けることで、それを通して天皇崇拝を強要しようとするものであった。本来は神社での儀礼は「祭祀」に属するのであるが、近代国家と宗教の強制はそぐわないこともあり、これを「習俗」儀礼として規定し強制を可能としたわけである。こうした中にあってカミは「居ますが如く」とされていた。カミそのものを云々するのではなく、居るが如くに儀礼を行う、ということでカミの問題に直接に関与することを回避しようとしたわけであるが、それは図らずもカミ信仰の原点への回帰につながるものでもあった。


なぜ、しわすは神道信仰を因習的と感じて、外の世界に可能性を見ていたのか。それは神道が「現状肯定」を基本としているからであろう。かつての農業社会では、誰でも日々やることは大体において決まっていた。そしてそれは一年においても同じで、年が明ければ決まった正月行事をして、秋には祭りがあってと、その一年のサイクルが繰り返されて一生を終えるのであった。やるべきことを無事にやって生活をして行く。それが「和魂」の働いている状態であった。これが大いなる和の心、つまり「やまとごごろ(大和心)」であり大和魂であったのである。現在では大和魂を「荒魂」の働きのように捉える人も居るがそれは近現代になってから生まれたイメージである。「日々、同じで良い」というのであるから「向上」という考え方も生まれて来ない。問題のない日々が続けば良いのであるから、それ以上を求める必要性がないわけである。大和心という語は古代に見られるが、これは漢才(からざえ)に対する観念として存していた。あえて言えば漢「才」とは知識や論理であり、大和「心」は感情や感覚である。


そうした中でのカミとは「大和心」に触れることであり、それは感覚、感情のことであるからそこには教義といった論理の入る余地はないわけである。また曖昧さがあるのもそうした理由によっている。教義がないので、どのような祈りでも拒否されることはない。映画では護符を受けた参拝者が「効かなかった」とクレームに来るシーンがある。これに対して、しわすは、どのような悪い結果でも「それで済んだのはカミさまのおかげ」と答えている。映画では面倒な参拝者に適当に答えているという流れの中で描かれているが、教義のない神道にはもともとシステムとしての救済の方法がない。そうであるから救済された、と感じるしかないわけである。しかし時代と共に明確な救済のシステムが求められた時、日本人はそれを仏教に求めた。街が生まれて「他」との交流が増えれば「個」の自覚も生まれてくる。その時には高度に完成された仏教が入って来ていたので神道では、それに対応する必要が生まれなかった。


近現代には「個」の救済のシステムとしての「行法」を神道でも独自に作ろうとする動きが生まれて鎮魂や禊の行法が考案された。しかし、いずれも行法としては取るに足らないものでしかなかった。そのベースとなったのは仏教や修験道、陰陽道などであり、それを強いて神道的な枠組みの中に押し込めようとしたために劣化コピーにしかならなかったのである。こうした行法などはいうならば「才」である。「漢才」とされていたものである。「漢才」が「大和心」と区別されるように「漢才」は「漢才」としてあれば良いのであり、それを「大和心」と混淆させる必要はなかった。この「才」と「心」の分離は現状に応じて変化をする「才」をより取り入れやすくするための智慧でもある。


役行者は当時の最先端の行法であった孔雀明王法をして葛城(かつらぎ)山で修行をしていた。最澄は「法華経」を奉じて比叡山、空海は密教によって高野山に籠もっていた。これは山で修行することで自然に触れて大和心が涵養されたためである。神道とは「霊的な力」の存在を個々が感じることである。これはシステム化することができない。一方で心身を整えるシステムは普遍的なものである。そうした「才」は高度に発達したものを取り入れれば良いのである。そしてその開かれた感性で自然に触れることで個々人に霊的な感覚が得られるわけである。


「巫女っちゃけん。」での「巫女」への目覚めは、個人の成長として説かれており、これを「大和心」が涵養されたと見ることもできるが、映画ではあえて宗教的な覚醒とは描いていない。こうした手法は映画としては優れているといえよう。そうすることで鑑賞者は多角的な視点を与えられる。いろいろな考えの広がりを得ることができるわけである。同様な展開は三島由紀夫の『美しい星』や『豊饒の海』でも見られている。そこでUFOがあるとしてしまったり、輪廻転生が起こっているとしてしまうと文学としての展開は限られたものとなる。


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