丹道逍遥 甦る「天の叢雲の剣」と封印された「柱」
丹道逍遥 甦る「天の叢雲の剣」と封印された「柱」
植芝盛平は「合気道は草薙の真剣の発動である」としていた。また『武産合気』には「合気は須佐之男ノ大神のお使いになったみ剣の名前である。即ち武産合気である」ともある。これは天の叢雲の剣のことである。『古事記』では草薙の剣は天の叢雲の剣の別名としているので、一般にはこれらは同一の剣であると考えられている。ちなみに合気道を練習している人の中で、天の叢雲の剣とあるのに合気道では日本刀(木剣)を使っていることに疑問を持つ向きもあるようであるが、天の叢雲の剣というのは「武産合気」という合気道の理念を象徴しているのであって、古代の剣を使うということではないし、剣術をいうものでもな。これは合気道の全般の理念を象徴しているのである。
天の叢雲の剣については『日本書紀』に八岐の大蛇の上に常に「雲気」が掛かっていたためにその名があると記されている。つまり横溢する「気」が「雲気」となって見えたということである。一方、草薙の剣は日本武(やまとたける)の尊が野火に囲まれた時に剣で草を切り払い火打石で火を付けて向かい火を起こして助かったとされることに由来する。そして、この剣は熱田神宮に納められることになる。草薙の剣は日本武の尊が得る前には伊勢神宮にあったとされ、その前は朝廷にあったということになっている。興味深いことに高天原から下った「剣」は『古事記』でも『日本書紀』でも『古語拾遺』でも全て「草薙の剣」としてあって「天の叢雲の剣」ではない。これはおかしなことで草薙の剣となるのは日本武の尊以後でなければならない。高天原から降ろされる時にはあくまで「天の叢雲の剣」でなければならないのに大和朝廷の歴史書が全て「草薙の剣」としているのは、後世に「草薙の剣」とされているものをさかのぼって「天の叢雲の剣」と同じとしたためと思われる。熱田神宮に納まった「草薙の剣」は朝廷から出る時に「形代(レプリカ)」が作られたとされる。こうした経緯から考えると大和朝廷で王権のシンボルとされていたのは熱田神宮の「草薙の剣」であり、それを出雲神話と結びつける過程で「草薙の剣」と「天の叢雲の剣」が同一視されるようになったものと考えられるのである。
盛平は合気道の原理である「武産合気」を象徴するのが「天の叢雲の剣」であり、実際の合気道の働きを示すのが「草薙の剣」であるとしているわけである。つまり合気道とは「向かい火」であって攻撃ではなく防御をベースとするシステムであるということである。
草薙の剣の神話で重要なことは向かい火を放つ時に、火打石の入った袋を渡されたというところにある。倭姫(やまとひめ)の命は「何かあった時にはこの嚢(ふくろ)の口を開けてください」と言っている。この「嚢」とは子宮であり女性原理を示すもので、「剣」は男性器で男性原理を示すものと考えられる。日本武の尊が「嚢」と「剣」を使うということは、ここに女性原理と男性原理とが融合していることが示されているわけである。これは天の叢雲の剣では、速須佐之男の命と櫛名田比売との「結婚」として表されていたものと同じである。つまり「天の叢雲の剣」と「草薙の剣」には、ともに女性原理と男性原理の融合を象徴するものなのである。実はこれらの剣は合気道における「十字のむすび」を示すものであり、天の叢雲の剣は高天原に移されることで「縦」を、草薙の剣は熱田神宮に納められることで「横」を示すものなのである。そうであるから天の叢雲の剣と草薙の剣の二つが揃うことで合気道の原理と技が完成することになるのである。
こうした「十字のむすび」を盛平は「天の浮橋」として教えていた。天の浮橋はここに伊弉諾(いざなぎ)の尊と伊弉冉(いざなみ)の尊とが立って、天の瓊矛(ぬぼこ)を下して潮をかき回すことで磤馭慮(おのころ)島を作るのであるが、ここでは男性原理と女性原理の融合が、伊弉諾(いざなぎ)の尊ー伊弉冉(いざなみ)の尊によって示されている。この場合に天の瓊矛を使うのは「縦」であり、磤馭慮島に降りて来て、天の御柱を巡って結婚をするのが「横」である。重要なことはこうした「むすび」を媒介するものとして「矛」や「柱」といった棒状のものがあるからである。これは神道的にいえば「柱」である。神々を一柱二柱のように「柱」をして数えるのは、そうした棒状のものに神が下って来ると信じられていたからである。こうしたことからすれば太古の神降ろしは柱のようなところを男女が巡ることでなされたものと思われるのである。天の浮橋では矛の方を回すようになっているが、実際は「矛」の周りを巡っていたものと思われ、それが神話となる時に変形したと考えられる。
縄文時代のストーンサークルも中心に棒状の石が立てられて、その周囲を円形に石が並べらている。これも中心の石を巡っていた痕跡と思われる。また三内丸山遺跡では四本の大柱の建物があったとされるが、これも柱の周りを巡ったものであろう。これが弥生時代には吉野ケ里遺跡で「望楼」として見ることができる。これは「望楼」ではなく出雲大社のような祭祀施設であったと思われるのである。出雲大社も本来は柱が立っているだけではなかったかと思われる。それは出雲の国譲り神話で建御名方(たけみなかた)の命が諏訪へ逃げるというところでも分かるが、諏訪大社の御柱のように立てられていたのではないかと思われるのである。出雲大社には心御柱の周辺に八本の柱が立てられている。これは八岐の大蛇を象徴するもので、中心の心御柱が「尾」にあったとされる天の叢雲の剣である。つまり出雲大社は八岐の大蛇の秘儀の場であったことになる。
こうした「柱」の祭祀はただ柱が立っているだけであって「社殿」はなかったものと思われる。後に社殿はできても諏訪大社のように柱の近くに建てられるべきであったのであろうが、それが柱の上に設けられたということは出雲における神降ろしが封印されたことを表しているのではなかろうか。出雲大社における心御柱こそが天の叢雲の剣であり、それは大和朝廷によって封印されてしまったのである。これは伊勢神宮も同様で伊勢の心御柱も社殿によって封じられてる。これが心御柱を封じる行為であったことは近代になるまで私的な奉幣が禁止されているばかりでなく天皇の参拝もなかったことで明らかであろう。江戸時代に熱田神宮の草薙の剣を確認しようとしたところ木の箱の「赤土」に埋められていたらしい。これは荒神谷遺跡の剣と同様で、剣の霊的な力を封じるためのものと思われる。
いうならば盛平の開こうとしていたのは「縄文意識」とでもいうものであろう。こうした「意識」は大本でも開かれようとしたし、天理教でも見ることができる。日本史上にはこうした事例がまま存している。弥生時代には大陸からもたらされた剣や矛が巨大化するケースがある。これは祭祀に用いられたのではないかと考えれているが、まさにそうであろう。「縄文意識」に覚醒した人は武器による「横」のむすびを感得したのであり、それにより争いを抽象化=祭祀化することができたのである。ここに「武器」は殺傷の力を失うことになる。合気道も「実戦には使えない」とか「馴れ合い」と評されることが多いが、これはそうしていると考えるべきである。あえて争いには使い難いようにたっているわけである。それは「争い」を拒否するのではなく「争い」を抽象化することで、その働きをなくしまおうとしているのである。合気道を関節技として合理的に追究するとハプキドーのようになってしまう。ただハプキドーは「合気道」と書くものの大東流から生まれたとしている。これは確かに原理的にいえば合気道より関節技に多彩な展開を見せた大東流から生まれたとするのが正しいであろう。こうしたところに原理主義的な朝鮮の人の気質を見ることができるのかもしれない。