道徳武芸研究 太極拳における「文」と「武」と(6)
道徳武芸研究 太極拳における「文」と「武」と(6)
太極拳は「文武の合一」を目指す考え方の中の必然から生まれたものであるが、それは「文」をもって「武」を抑制しようとするものであった。そうであるから「文」を前面に出している太極拳においては「武」を中核とする練習体系を認めることはけっして好ましいことではないことになる。中国武術の発祥が少林寺とされるのも、寺という「文」において「武」が統御されているという形が「少林寺」としてシンボライズされている故と考えられよう。ちなみに形意拳も岳飛が少林寺で内経なるものを壁の中から発見したことで形意拳が考案されたと一部にいわれている。ここで「内経」としてイメージされているのは形意拳の三才式や三体式であろうが、これがあることで形意拳は文武の合一がシステムとして果たされることになる。つまり形意拳には十二形拳という動物の動きを真似た拳もあるが、それがそれほど元となった動物の動きに似ていないのである。常に半身の構えから大きく離れることがないためで、それは十二形拳が「動物」の本能(闘争の力)を「人」の本能(和合のチ力)において統御していることを示しているのである。つまり、ここにも「文=和合」をして「武=闘争」をコントロールしようとする考え方を見て取ることができるのである。またこの和合の力はホモ・サピエンスが生き残ることができた能力とされていることを最後に付記しておこう。