道徳武芸研究 太極拳における「文」と「武」と(5)
道徳武芸研究 太極拳における「文」と「武」と(5)
さて文武の合一といってもそれは具体的にはどのようなものとして「合一」されるのであろうか。これを考える前提として先ずは「武」の発見を知らなければなるまい。生物には生き残ろうとする「本能」がある。そのためにいろいろな動物は特殊な「能力」を持っている。そうしたサバイバルの能力を人間においても、潜在する能力であると考えてそれを開くことで、より攻防というサバイバルにおいて優位に立てることを「武」においては発見し得たのであった。そうでるから少林寺の五獣拳のように獰猛な獣の「能力=本能」を見出してそれを人においても開こうとしたのであった。しかし一方でそうした死闘が限りなく続くことは誰しもが永遠に安寧を得ることができなくなってしまう。そこで見出されたのは人間特有の本能である「協力をする」という能力であった。これが静坐である「文」において見出されたのであった。「武」の本能と「文」の本能はどちらが本質的かというと、おそらく動物一般には「武」の本能があるのでそれが根底にあるものと思われるが、中国では「文」が人としての根源にある能力つまり「性」であると考えられるようになったのである。そうであるから文武の合一は「文」をもって「武」を治めることにある。闘争ではなく和合を求めることにこそ人としての修練の根本が有ると考えたのである。