道徳武芸研究 太極拳における「文」と「武」と(4)
道徳武芸研究 太極拳における「文」と「武」と(4)
ではなぜ太極拳において「長拳」は砲捶たる地位を占めることができないのか。それは太極拳が静坐と拳術の統合において成立しているという大前提があるからなのである。老子もそうであるが、中国では「一」ということが重視される。これはいうならば「真理の普遍性」とすることができよう。真理は一つのものに還元されると考えるのである。それは「道」であり、北極星であり、それに象徴される皇帝であったりする。中国では「易」は陰陽の二元により世界を把握しようとする思想であったが、それでは座りが悪いと思われたのであろう。「一」たる無極が考え出されるようになる。そうなると陰陽は太「極」となり、無「極」へと還元されるシステムが構築される。五行も同様で、5つの要素の相関関係による世界観を五行説は持っているのであるが、これも「一」が求められ「土」が特別な意味を有することになる。さらには文武の合一であるとか、天人の合一などとにかく最終的な真理を「一」に求めようとする傾向は顕著であり太極拳もそうした思想潮流の中から生まれたので、それを体用に分けて砲捶(用)を考案するなどということは太極拳が成立している根本的なシステムにおいて成り立ち得ないことなのである。