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道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(6)

  道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(6) 静坐(道功)と武術を兼ねて修することは広く行われたようであるが、それがシステムとして統合されることはなかった。武術で知られている少林寺は禅寺であるから坐禅が行われていたわけで、そこには易筋経、洗髄経が伝わり、易筋経は武術に、洗髄経は坐禅であるとされている。しかし実際に禅僧として有名な人物で武術にも長じた人は居ないようである。静坐と武術の統合を試みたのは意拳であった。意拳では「混元トウ」を行うことで武術と静坐とを融合させることが可能であると考えたのであった。こうした立って行う瞑想は立禅と称されるが、立禅そのものは意拳より遥か以前に『万神圭旨』に書かれている。同書は近世に著されたと考えられていて、立禅は手は坐禅のままで、ただ立つだけである。そして、そのまま歩くのは行禅としている。歩く禅は経行(きんひん)として今でも多くの禅寺で行われていて、日本では疲れた足を休めるためのものとされているが、ティク・ナット・ハンなどはウオーキングメディテーションとして積極的に瞑想の方法としていた。日本では立禅は太気拳を通して知られるようになったのであるが、その形は「腕を胸の高さにあげて構える」もので、これは武術の馬歩トウ功と同じである。意拳ではこの形を「トウ(手偏に掌)抱式」などと称している。

道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(5)

  道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(5) 孫錫コンにしても、趙避塵にしても、それぞれ武術に長じた道学の師から道学は受け継ぐものの武術までも学ぶことはしていない。これは武術と道功を共に学ぶ人は多かったもののそれらがシステムとしてひとつのものとしては認識されていなかったことを伺わせる。陳微明の『太極拳答問』にも静坐のことが出てくる。それは「太極拳と静坐とは共に習って構わないのでしょうか」という問いである。これには静坐を行うことは健康にも良い効果があるとしながらも、真伝を得ることが難しく、もし間違った方法で行ったなら大きな弊害が生ずる恐れがある、と答えている。ついで「太極拳の代わりに静坐をすることはできますか」という問いには、静坐も太極拳も心身の生じている状態は等しいのであるから可能であるとする。ここに示されているのは、太極拳と静坐とは別なものであることを前提とするものの、その内実は等しいと言っている。これには静坐が儒教や仏教など「知的に優れた人の行うもの」であり、武術が「粗野な人の行うもの」と考えられていたことがある。陳微明は太極拳は一般に武術とは異なり、静坐のようにジェントリーなものであることを言おうとしているわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(61ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー2) 大国が「下流(受け身)」であれば、天下の国々は友好関係を築くことができる。 通常、大国は尊ばれ、小国は軽んじられる。昔から大国の君主は自分の思うままに統治をして来た。そして天下の国々に臨んでいたのである。虚心で偉ぶることなく他人に寄り添うのは、その社会的地位の高い低いにかかわらず、国の大小にも関係がなく、水が下に流れるように、他者と交わろうとするのであれば当然のことであろう。受け身であるという徳をして、大国は小国と交わりを持つでべきなのである。「下流」に居ることの徳を持つことで、あらゆる国と有効な関係を築くことができる。そうなれば大国でも小国でもあえて他国を侵略をしようとすることはないであろう。小国と交わるのは、自己を卑下するようであらなければなるまい。小国と大国との関係も、人と人との関係と同じである。またそれは(大国と大国、小国と小国など)あらゆる国の交わりにも通じている。そうであるから大国であるからといって自己を奢ってはならないし、個人にあっても受け身であることで良い交わりができるのである。大海は受け身であることで、いく筋もの川の水を集めることができている。こうしたところに見られる自然のあり方は、自然のあらゆるシーンにあっても変わりはない。ここで述べられているのはそうしたことであるから「国が『下流(受け身)』であれば、天下の国々と友好関係を築くことができる」とされているのである。 〈奥義伝開〉ここでは「下流」として出ているが、以下では専ら「下」とある。以下は老子の説明で一般的な格言の「下流」という語を抽象化して自己の思想に近づけているわけである。ここで挙げられている元の格言は「大国は下流といえる。それは天下のものが集まっているからである」というものであった。幾筋もの川の流れが大海に流れ込む自然の摂理をして、大国が大国であるのは多くのものがそこに集まるからであると教えているわけである。しかし、老子は「下流」の「下」ということに注目して、通常は「上」が良しとされるが、本当は「下」にも価値があることを示そうとする。

宋常星『太上道徳経講義』(61ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー1) 道には尊卑はないが、徳には大小がある。国は大きいからといって尊いわけではないし、徳もそうである 。道は天地の理のままに動いている。それは無為であり、それをして統治をする。そうなれば民の心は善となり無心で居るようになる。その情は自然に順じており私情を持つことはない。小も大にもこだわることなく、自分と他人を区別することもない。心徳はこだわりを持つことなく、物欲を持つこともない。そこには天の理が全く純粋に存しており、好悪の感情が生まれることもない。上では天があって地を覆っていて、それは全土に及んでいる。下には地があって全てのものはそこにある。こうした天地は、虚心であり自己に執着することもないが、あらゆることに関係を持っている。天は静をして下に臨んで徳を及ぼしているが、それはあまねくところに及んでいる。天下の国は余計に集めよう(兼蓄)としなくても、あらゆるところから徳が集まって来る(兼徳)。それはあえてそうしなくてもそうなる。この章では、こうした「受け身(下)」であることについて述べられている。大国や小国を例として「受け身(下)」であるとは、どういったことかについて教えている。大国でも小国でも、はたしてよく「受け身(下)」であって統治が可能なのであるのか。大国の統治者には大国ゆえの奢りがあるものである。そうなれば小国に対しては、ただ従属を求めるだけになってしまう。こうした中に徳というものが、どうあるのかを考えている。そうすれば(ただ大国が小国を従えるというのは徳の実践ではないことが分かる。つまり)天下が泰平であるのは共に徳を実践することであることが分かるのである。 〈奥義伝開〉ここでは「大国は『下流(受け身)』であれば、天下の国々は友好関係を保つことができる」という当時の格言であろうと思われる言葉と「兼蓄の人(更に蓄えようとする人)」や「入事の人(介入しようとする人)」の居ることを挙げて、これらに共通することは「静」の欠如であると教える。誰しもより多くを得ようとおもうし、自分の思い通りにしようとして介入したく考えるものであるが、それらによっては和平を保つことはできない。制圧ではなく互いに存在を求めあって交流をしようとするなら「静」を身につけていなければならない。それは牡、牝においても見られるもので「静」の徳は牝にあって、牡の...

宋常星『太上道徳経講義』(60ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(60ー6) 鬼神も聖人も共に人々を傷つけることがない。それは共にそこに「徳」があるからである。 ここで述べられているのは、全体の総括である。よくよく考えてみると「不可思議」はこの世ならざる「天」(という別世界)に留められていることで、我々は「徳」を持っていられるのではなかろうか。「聖」なるものは存しているし、人々は心に「徳」を持っている。「不可思議」が「不可思議」であるのは、それが理解できないからである。「聖」の「聖」たるは、よく無為をしてを実行しているからである。理解し得ない「不可思議」も天地において働いていれば、それは「徳」の現れなのである。例え、それが理解を越えたものであってもである。「聖」をして無為を以て天下を治めると、その「徳」はあらゆるところに及ぶことになる。このように「徳」は自然のままに普遍的に存しているのであるから同じく自然のままに生じた「不可思議」が民を傷つけることはないわけである。「徳」は自然のままに広大である。そうであるから自然のままである聖人も民を傷つけることはない。「不可思議」が顕現するのも、(それは自然の働きにおいてなので)聖人の力ということができるであろう。「徳」を実践する聖人も「不可思議」も「徳」も共に民を傷つけることはない。そうであるから聖人の「徳」と「神」の「徳」とは共に異なることがないのである。つまり「神」の「徳」と聖人の「徳」は全く同じなのである。老子が「共にここに」と述べているのは、聖人の「徳」と「神」の「徳」とにおいて「気」と「理」の働きが等しいものであるからである。そうであるから天と地は隔てなく交わっているのであり、それらと「徳」とはひとつのものなのである。日と月も交わっており、これらはその「明」を等しくしている。五行も等し自然の普遍性の中に帰していて、それにおよって五行は循環している。また六気(風、熱、湿、火、燥、寒)もそうした中に帰しているからこそ、いろいろな働きが生まれているのである。「鬼」や「神」も同様で正しい天の「理」によっている。陰陽も「一」に帰することで転換が為されている。そうであるから天地の陰陽でも、「鬼」「神」の告げる吉凶であっても、それらは全てて正しい天の「理」に帰せられるわけである。家庭や国家に働いている「理」が乱れると民の生活も安定することはない。民の生活はま...

道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(4)

  道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(4) 孫錫コンは『八卦拳真伝』で武術と静坐(道功)の関係について「道功は内功で、武術は外功ということができる」とし、道功だけで武術を知らな開ければ滞りなく身体を動かすことはできないとし、また武術だけで道功を修めることがなければ気血を円滑に巡らすことは難しいとしている。そして道功は武術の根本であるという。つまり気血が円滑に巡ることで身体もよく動かすことができるようになる、というわけである。そのベースとなっている考え方は「性」と「命」とを共に修するという趙避塵の教えに他ならない。つまり「性」は道功で「命」は武術である。これが性命双修であり、道家では古くから重視されて来ている。孫錫コンは趙避塵から秘宗拳を習ってはいないようであるが『性命法訣明指』には趙が師事した人物の中に劉雲普なる人物が居てよく武術を会得していたとされる。同書によれば大弟子の劉耕専はビジネスに従事し、二番弟子の趙は道学を教え、三番弟子の劉金耀は武術を、四番弟子の王子真は医療を生業としたとあり、その他の多くは武術をよく受け継いだとされている。こうして見ると必ずしも道功と武術とはセットになっているものではなかったことが分かる。

道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(3)

  道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(3) 趙避塵の『性命法訣明指』には三十三度にわたる渡法弟子の記録があるが、その二十七度に孫錫コン(道号は玄礼子)の名が見えている。ちなみに同書では趙は幼い頃から「玄学」を好んだとあるだけで武術のことには触れていない。また玄学を極めるために数十年の間に三十人を下らない師を訪ねて歩いたとあり、その中で本当のことを知っていたのは五、六人であったとする。そして「およそ真の道を求めようとする者は、一人の師に就くだけでは不十分である。多くの師に就いてその言うことを比べて、どの教えが正しいのか判断をしなければならない」と記している。ちなみに孫錫コンは天津に道徳武学研究社を設立して八卦拳を教えていたが、1949年に大陸に共産党政権が出来たために香港へ移り、さらに台湾へと赴いたが六十三歳で高雄で病没した。台湾に居たのは一年くらいであり当時は混乱期でもあったので技を受け継ぐ者も居なかったと思われる。