道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(5)
道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(5)
孫錫コンにしても、趙避塵にしても、それぞれ武術に長じた道学の師から道学は受け継ぐものの武術までも学ぶことはしていない。これは武術と道功を共に学ぶ人は多かったもののそれらがシステムとしてひとつのものとしては認識されていなかったことを伺わせる。陳微明の『太極拳答問』にも静坐のことが出てくる。それは「太極拳と静坐とは共に習って構わないのでしょうか」という問いである。これには静坐を行うことは健康にも良い効果があるとしながらも、真伝を得ることが難しく、もし間違った方法で行ったなら大きな弊害が生ずる恐れがある、と答えている。ついで「太極拳の代わりに静坐をすることはできますか」という問いには、静坐も太極拳も心身の生じている状態は等しいのであるから可能であるとする。ここに示されているのは、太極拳と静坐とは別なものであることを前提とするものの、その内実は等しいと言っている。これには静坐が儒教や仏教など「知的に優れた人の行うもの」であり、武術が「粗野な人の行うもの」と考えられていたことがある。陳微明は太極拳は一般に武術とは異なり、静坐のようにジェントリーなものであることを言おうとしているわけである。