宋常星『太上道徳経講義』(60ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(60ー6)

鬼神も聖人も共に人々を傷つけることがない。それは共にそこに「徳」があるからである。

ここで述べられているのは、全体の総括である。よくよく考えてみると「不可思議」はこの世ならざる「天」(という別世界)に留められていることで、我々は「徳」を持っていられるのではなかろうか。「聖」なるものは存しているし、人々は心に「徳」を持っている。「不可思議」が「不可思議」であるのは、それが理解できないからである。「聖」の「聖」たるは、よく無為をしてを実行しているからである。理解し得ない「不可思議」も天地において働いていれば、それは「徳」の現れなのである。例え、それが理解を越えたものであってもである。「聖」をして無為を以て天下を治めると、その「徳」はあらゆるところに及ぶことになる。このように「徳」は自然のままに普遍的に存しているのであるから同じく自然のままに生じた「不可思議」が民を傷つけることはないわけである。「徳」は自然のままに広大である。そうであるから自然のままである聖人も民を傷つけることはない。「不可思議」が顕現するのも、(それは自然の働きにおいてなので)聖人の力ということができるであろう。「徳」を実践する聖人も「不可思議」も「徳」も共に民を傷つけることはない。そうであるから聖人の「徳」と「神」の「徳」とは共に異なることがないのである。つまり「神」の「徳」と聖人の「徳」は全く同じなのである。老子が「共にここに」と述べているのは、聖人の「徳」と「神」の「徳」とにおいて「気」と「理」の働きが等しいものであるからである。そうであるから天と地は隔てなく交わっているのであり、それらと「徳」とはひとつのものなのである。日と月も交わっており、これらはその「明」を等しくしている。五行も等し自然の普遍性の中に帰していて、それにおよって五行は循環している。また六気(風、熱、湿、火、燥、寒)もそうした中に帰しているからこそ、いろいろな働きが生まれているのである。「鬼」や「神」も同様で正しい天の「理」によっている。陰陽も「一」に帰することで転換が為されている。そうであるから天地の陰陽でも、「鬼」「神」の告げる吉凶であっても、それらは全てて正しい天の「理」に帰せられるわけである。家庭や国家に働いている「理」が乱れると民の生活も安定することはない。民の生活はまさに君主が正しい天の「理」によって統治しているかどうかに掛かっている。「徳」が帰するのも天の「理」であり、あらゆるものがここに帰している。これはまさに「徳」が「一(普遍的存在)」であるということでもある。つまり「一」なる「徳」にあらゆるものは帰するわけである。それはまた「一」なる道に帰するということでもあり、これは天地の間に普遍的に見られることである。大国を治めるのは小さな魚を煮るようでなければならない、ということにおいてもそうした「一(普遍性)」に帰することは変わらない。ここにある「鬼神も聖人も共に人々を傷つけることがない」も「徳」と同じく「一」に帰するものなのである。この章で述べられているのは「鬼」「神」の行いについてである。鬼神も陰陽の気によって働いている。陰陽の気は拡散すればあらゆるものに及び、その存在をあらゆるところに見ることができる。それが収斂すれば、どこにもそのあることを見ることができなくなる。その変化、往来、屈伸(隠顕)の変化の全ては「一」によっている。ただ「一」というものは見ることができなくても、その存在を知ることは可能である。「一」は何か分からないし、見ることができないので聖人と「鬼」「神」とで通底するもののあることが分からないかもしれないが、これらに通底しているのは「心」であり、そこには全く私意というものはない。その「性」においては全くの有為の働きは存していない。道は陰陽とひとつであるから「鬼」「神」も「徳」を行っているのである。つまり「一」なる(普遍性の中にある)天地、万物の「理」は同じく「一」なる鬼神の禍福の働きと等しいわけである。道をして天下に臨むということも、これは春風が和やかであるのと同じ自然なことであり、あらゆる天地の存在が「一」なるものの中にあり、あらゆる存在が「一」として存していて、それぞれがそれぞれの「理」を得ている。それぞれの天の「理」を受けた「性」を有している。そうであるから(普遍性のままにある)聖人には私心が無いわけである。また自己の「性」も他の人の「性」と全く等しいのであり、あらゆる人の「性」は天地の「理」とひとつである。これをして人の身体を考えてみると、身体の中の陽気は外に現れている。これは身体の中における「神」の働きということができるが、また「鬼」の働きとしても間違いではない。こうした(普遍性を認識する)ことによって本当に道と人の「性」とが等しいことが理解できるであろう。「性」は心の根源である。「性(心の根源)」と「命(身体の根源)」は大いなる道によって成り立っている。そうであるから意識(神)や活力(気)も陰陽の変化であり有為によって扱い過ぎれば危ういことになるわけである。これは大国を治めるのと同じであり、小さな魚を煮るのと等しく扱いが過ぎてはならないわけである。陰陽が調和した状態で天下に臨むのは正しい「鬼」「神」の働きと等しいものである。こうしたことが分かれば、心身の調和をとることが可能となって身体という天下、国家をよく治めることができるようになろう。


〈奥義伝開〉あらゆるものは「道」という合理性の中にある。そしてそれを人が実践することが「徳」と称される。そうであるからあらゆる存在は「徳」を実行している、と言えるのである。つまり「徳」とは合理性が実行された状態をいうものであり、その原理が「道」と称されるわけである。これは後の儒教で「気」と「理」とされたのと同じ考え方で、これは宋常星の注釈でもそうして影響が伺える。


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