宋常星『太上道徳経講義』(61ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(61ー1)

道には尊卑はないが、徳には大小がある。国は大きいからといって尊いわけではないし、徳もそうである

。道は天地の理のままに動いている。それは無為であり、それをして統治をする。そうなれば民の心は善となり無心で居るようになる。その情は自然に順じており私情を持つことはない。小も大にもこだわることなく、自分と他人を区別することもない。心徳はこだわりを持つことなく、物欲を持つこともない。そこには天の理が全く純粋に存しており、好悪の感情が生まれることもない。上では天があって地を覆っていて、それは全土に及んでいる。下には地があって全てのものはそこにある。こうした天地は、虚心であり自己に執着することもないが、あらゆることに関係を持っている。天は静をして下に臨んで徳を及ぼしているが、それはあまねくところに及んでいる。天下の国は余計に集めよう(兼蓄)としなくても、あらゆるところから徳が集まって来る(兼徳)。それはあえてそうしなくてもそうなる。この章では、こうした「受け身(下)」であることについて述べられている。大国や小国を例として「受け身(下)」であるとは、どういったことかについて教えている。大国でも小国でも、はたしてよく「受け身(下)」であって統治が可能なのであるのか。大国の統治者には大国ゆえの奢りがあるものである。そうなれば小国に対しては、ただ従属を求めるだけになってしまう。こうした中に徳というものが、どうあるのかを考えている。そうすれば(ただ大国が小国を従えるというのは徳の実践ではないことが分かる。つまり)天下が泰平であるのは共に徳を実践することであることが分かるのである。


〈奥義伝開〉ここでは「大国は『下流(受け身)』であれば、天下の国々は友好関係を保つことができる」という当時の格言であろうと思われる言葉と「兼蓄の人(更に蓄えようとする人)」や「入事の人(介入しようとする人)」の居ることを挙げて、これらに共通することは「静」の欠如であると教える。誰しもより多くを得ようとおもうし、自分の思い通りにしようとして介入したく考えるものであるが、それらによっては和平を保つことはできない。制圧ではなく互いに存在を求めあって交流をしようとするなら「静」を身につけていなければならない。それは牡、牝においても見られるもので「静」の徳は牝にあって、牡の「動」を受け入れるとする。ここでは「静」の徳を述べているのであり、前の「大国を治めるのは小魚を煮るように」というのと共通している。前章では示されなかったが、その根底には「静」の徳があったのである。


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