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宋常星『太上道徳経講義』(57ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(57ー7) 聖人は「(聖人である)自分は無為であるから民は自ずから無為となる。 これより以下に記されているのは、老子が古代の聖なる王の教えを引いているところであり、それをして今の世に警鐘を鳴らそうとしている。時代は異なるが、ここで示されていることは、余計なことをしない(無事)人こそが天下を「統治」することができるということである。それはつまりは私意によらないということである。かつての聖人の言うことによれば「自分は無為であるから民は自ずから導かれるである」とか「自分はよけいなことをしない(無事)から民は自ずから豊かになる」とか「自分は静であるから民は自ずから正しくなる」とか「自分は無欲であるから民は自ずから素朴(樸)となる」とか「自分は私意を持たない(無情)のであるから民は自ずから清らかとなる」ということである。これは全て聖人の言である。これらの根底にあるのは「古の聖人は無為であった」である。そうあることで道を実践して徳を施していたのであり、けっして私意によることはなかった。修行をして他人を導く聖人は、天の理の正しさと一体となっていた。君臣の間で余計なことがなされ(無事)なければ君臣の間は安らかであり、天のままに動いていれば他人もそれに応じて動いてくれる。間違った政治が行われることはなく、天下の民は自分が正しくあろうとする必要もなくなっている(自ずから正しくなっている)。そうであるから統治者は当面やるべきことだけをやれば良いのであって、そうすることで有為を行うことなく天下の人々を惑わすこともなくなる。そうなれば天下の民は、聖人を太陽の如くに崇めて、甘雨の如くに思うことであろう。こうなれば強制することがなくても民は自ずから「統治」に服するし、法令を決めなくても民は自ずからあるべきに在ることになる。そうしたことを「自分は無為であるから民は自ずから無為となる」としている。 〈奥義伝開〉ここでは「民」とあるから「聖人」による「統治」が想定されているのであるが「無為」や「無事」は「余計無いことはしない」ということであり「何もしない」ということではない。これはあらゆることに就いて言えることである。規制と自由のバランスが完璧であれば、民は不満を抱くことはない。そして人が本来、持っている「善」による行動を取るので、世の中は平和で安定した状態となる...

宋常星『太上道徳経講義』(57ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(57ー6) 天下に禁止事項が多くなればなる程、民はいよいよ貧しくなっているからであり、人が多くの便利なものを使うようになればなる程、国家はいよいよ混迷をして来るのであり、人が多く技巧に頼るようになればなる程、役に立たない物が多く生産されるようになって、法令が多くなればなる程、盗賊はますます多くなってしまうからである。 ここで述べられているのは、全てどうして「正」をして国を治めなければならないのか、ということである。それは民間におけるあらゆる利益行為を禁止するようなものであるからに他ならない。それは「やるべきではない」ことをやっているから起こっているのであり、それが見えないところにまで影響を及ぼすことになっているのである。つまり、それは余計なことをしたことによって生じているわけである。優れた君主が統治をしている時には「道」をして政治が行われている。「徳」をして民を導いている。そうであれば民が財を得ることは妨げられることもなく、人々はつつがなく生活をすることができる。そうなれば国が富まないということはない。不足を感じる民も居なくなろう。民の楽しみは妨げられることもない。ただ禁忌が多ければ民に患いが多くなる。しかしあまりに無軌道でも民は困惑してしまうであろう。そうなれば必ず民の生活の妨げとなり、民の生活は乱れてしまう。これでは良い生活をしていたとしても、豊かとはいえないのではないであろうか。そうであるから「天下に禁止事項が多くなればなる程、民はいよいよ貧しくなっている」とされている。「便利なもの」はそれを使えば、それが当たり前となる。人が力を持てば、それは「便利なもの」として使うことができる。一方で聖人は天の「理」をして天下の統治を行うのであり「便利なもの」であるからといって「力」に頼ることはしない。もしある人が大きな「力」を持ったならば、統治の主体がそちらに移ってしまうかもしれない。臣下が「力」を持てば、統治の主体は君主から臣下に移動してしまうことになる。あるいは法律や刑罰が無闇に出されてしまうと、これは濫用であり、それは誤った考えによるものということができる。こうなると君臣の道は、明らかでなくなり、君主と臣下は互いに争って国も乱れてしまうであろう。そうしたことを「人が多くの便利なものを使うようになればなる程、国家はいよいよ混迷をし...

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(8)

  道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(8) 八卦拳において八母掌は形式は一定の形を維持して円周上を歩くもので、それは「導引の形」ということができる。しかし歩法は「扣歩、擺歩」で構成されていて八卦拳の基本体な腿法を練る「武術の形」を有している。一方で両儀之術から四象拳、八掌拳、羅漢拳へと展開する直線の套路は外形は「武術の形」であるが、内的には呼吸を練るもので「導引の形」となっている。八卦拳では「気を練る」「力を練る」「気と力を統合させる」という稽古の段階があるが、こうした「統合」を生じさせるためにはひとつの套路の中に「気」と「力」の二つを練ることのできるシステムが内包されていなければならない。劉雲樵の八卦「掌」では、この「統合」を「武術の形」を用いる系統で統一した。それは程派の八卦掌と同じシステムである。その意味で八卦「拳」ではなく八卦「掌」を称したのは全く正しいし、劉は八卦拳のシステムについてよく理解はしていたいということでもあろう。

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(7)

  道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(7) このあたりで系統を整理しておくと八卦拳では両儀之術は四象拳、八掌拳と展開して行くが、劉雲樵は両儀之術を四象拳として「八卦腿」を編んだのであった。つまり劉は本来の四象拳を用いることなく両儀之術を変更して「八卦腿・四象拳」としているわけである。八卦拳では両儀之術で「呼吸」を練り、四象拳で「四肢」を練り、八掌拳で「縮伸」を練る。「四肢」や「縮伸」の身法を練ることで「呼吸」が練られるわけである。「扣歩、擺歩」は走推掌から八母掌へと展開する。一方、武壇では「八卦腿・四象拳」で「扣歩、擺歩」を練って、八卦硬掌では「四肢」を練るとしている。これは本来の四象拳がないために両儀の「扣歩、擺歩」が四象拳(八卦腿)として鍛錬するシステムとなっていることが分かる。

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(6)

  道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(6) 真息を得るには呼吸そのものに意図を加えてはならない。そうであるから両儀之術では動きを通して呼吸を練っている。これは太極拳や形意拳でも同様である。つまり両儀之術は呼吸を練る術であって「扣歩、擺歩」の展開を練るものではないのであり、劉雲樵の伝えた八卦腿は両儀之術とは全く違ったものになっているということができる。ただ興味深いことは八卦腿が四象拳と称されている点である。既に八卦拳における両儀から四象への腿法の変化については触れたが、その意味において八卦腿を四象拳とすることは腿法から蹴り技への展開ということにおいて、一定の意義があるとすることができるであろう。また劉の伝えた四象拳は、八卦拳の四象拳とも違っている。それは八卦拳の四象拳が両儀之術から派生しているからであり、その基本に「扣歩、擺歩」の展開というベースを持っていないからに他ならない。ちなみに「扣歩、擺歩」を練るのは円周上を歩く套路である。

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(5)

  道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(5) 両儀之術は植芝盛平のいう「呼吸力」を練るものである。これは形意拳の劈拳も同様である。劈拳は五行の「金」であり、それは「肺」にあたる。これを上下の動きである「起落」によって行うことで自然に吸息、吐息を練ることが可能となる。呼吸力は中国では「真息」であるとか「胎息」であると言われて来た。それは人が本来、持っている呼吸の状態であるとされている。ヨーガでも呼吸法はよく練習されるが、注意しなければならないことはヨーガの練法では「呼吸法や体位法が最終段階ではない」という点である。ヨーガでは呼吸法に習熟することを目的とはしていない。呼吸法はあくまで瞑想のための補助であって、瞑想が完成した時の呼吸こそが重要なのである。極論すればヨーガでは一旦、成就点とは反対のことをして、その結果として成就点を見出そうとしている。それは白い紙に一点の黒を落とすことで白さを認識しようとするのと同じである。あえて無理な呼吸法をヨーガで行うのはそうしたシステムであるためである。

宋常星『太上道徳経講義』(57ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(57ー5) 私はどうしてこれを知っているのか。それは、 ここでは、これまでのまとめをしようとしている。それは「正」をして国を治めることであり、「奇」をして兵を用いること、「無地」をして天下を取ることであって、これらは全て「無為の正」であり、有為の作為ではない。老子はどうしてこうしたことが分かったのであろうか。それは無為を行うことによって分かるわけである。そうしたことを老子は明らかにしようとしている。 〈奥義伝開〉以下に老子は「無事=無為」とは、どういったことなのかを教えている。それは老子が身近に経験したと思われる事例によって示される。そしてそれが国家や天下に敷衍されて適用が促されている。つまり老子が重視しているのは、あくまで「国家」より「社会=天下」であり、それは「天下=民」でもあるのである。「国」も「天下」も「民」の集合体である。現代では「主権在民」といわれるが、これは実際には民主主義国家においても、共産主義、社会主義国家であっても実現されてはいない。どうしても権力が一部に固定されることを避けることはできないでいる。老子は意識改革が必要であるとするが、多くの人にそうした意識の覚醒の時が来るのかどうかは分からない。