宋常星『太上道徳経講義』(57ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(57ー6)

天下に禁止事項が多くなればなる程、民はいよいよ貧しくなっているからであり、人が多くの便利なものを使うようになればなる程、国家はいよいよ混迷をして来るのであり、人が多く技巧に頼るようになればなる程、役に立たない物が多く生産されるようになって、法令が多くなればなる程、盗賊はますます多くなってしまうからである。

ここで述べられているのは、全てどうして「正」をして国を治めなければならないのか、ということである。それは民間におけるあらゆる利益行為を禁止するようなものであるからに他ならない。それは「やるべきではない」ことをやっているから起こっているのであり、それが見えないところにまで影響を及ぼすことになっているのである。つまり、それは余計なことをしたことによって生じているわけである。優れた君主が統治をしている時には「道」をして政治が行われている。「徳」をして民を導いている。そうであれば民が財を得ることは妨げられることもなく、人々はつつがなく生活をすることができる。そうなれば国が富まないということはない。不足を感じる民も居なくなろう。民の楽しみは妨げられることもない。ただ禁忌が多ければ民に患いが多くなる。しかしあまりに無軌道でも民は困惑してしまうであろう。そうなれば必ず民の生活の妨げとなり、民の生活は乱れてしまう。これでは良い生活をしていたとしても、豊かとはいえないのではないであろうか。そうであるから「天下に禁止事項が多くなればなる程、民はいよいよ貧しくなっている」とされている。「便利なもの」はそれを使えば、それが当たり前となる。人が力を持てば、それは「便利なもの」として使うことができる。一方で聖人は天の「理」をして天下の統治を行うのであり「便利なもの」であるからといって「力」に頼ることはしない。もしある人が大きな「力」を持ったならば、統治の主体がそちらに移ってしまうかもしれない。臣下が「力」を持てば、統治の主体は君主から臣下に移動してしまうことになる。あるいは法律や刑罰が無闇に出されてしまうと、これは濫用であり、それは誤った考えによるものということができる。こうなると君臣の道は、明らかでなくなり、君主と臣下は互いに争って国も乱れてしまうであろう。そうしたことを「人が多くの便利なものを使うようになればなる程、国家はいよいよ混迷をして来る」と教えている。「技巧」の「技」とは優れた力(能力)のことである。「巧」とは優れた知恵(知力)のことである。「多く」とあるのはいろいろであるということで、「生産」とは生み出されることである。昔の人のことを考えてみると、その気質は淳朴であり、その性質は素朴であった。物に対しても特にこだわりはなく、そこに技巧を用いることなど考えもしない。しかし後の世の人は、多くの技巧に頼る人が出て来た。そして人々はそれを喜んだのである。そして時代を追うごとに技巧は高められ、人の心を惑わすようになった。象牙の箸が作られると、玉の盃を作ろうと思うようになる。そうして技巧はますます精緻を極めて行った。そして過剰に技巧を凝らした物が多く作られるようになったのである。そうしたことが「人が多く技巧に頼るようになればなる程、役に立たない物が多く生産される」として述べられている。「法令」とは国を治めるためのものである。規律であり定めである。物を盗む人が「盗人」であり、人を害するのが「賊人」である。聖なる王は、仁義をして国を治め、道徳をして天下を教化しているのであって、法令をしてではない。後代には法令を出して民を統治するのが普通と考えられるようになって来た。そして民に楽しみを与えようとする時にも法令が出されるようになった。それは国を統治して、民を救おうと思って出しているのであるが、法令をして民を治めようとするのは「善」なるものではない。またもし出された法令が適切でなければ、大きな誤りを犯すことになる。そうなれば民の心は政治から離れてしまうし、それがで突然あれば民はそれに応えることはできず、統治から外れて行くことになる。そうなれば法令の外にあって「盗賊」とならなければならなくなる。生活が成り立たなければ、そうならざるを得まい。つまり民が「盗賊」となってしまうのは、すべからく法令が適切ではないからなのである。そうしたことが原因となっている。このようなことを「法令が多くなればなる程、盗賊はますます多くなってしまう」としている。つまり、これらは全て治国について述べているのであり、有為であれば害を為すということである。これを読む者は、細部まで注意をして読まなければならない。


〈奥義伝開〉「無事=無為」でない社会状況が発生した時には多くの社会矛盾が生まれる。こうした矛盾は国家が法令を出すことで生まれることもあろうし、社会の中で自然に醸成されて来る場合もあるであろう。そうした弊害は「システムの運用において問題となる事柄」と理解することができる。社会矛盾は社会というシステムを円滑に運用して行く上での弊害となる。また、これは武術というシステムにおいても言えることで、ここで述べられていることを武術において言うならば「攻防の形の動きを固定しすぎると応用が効かなくなる」「威力を求めて武器に頼るなどすると護身の意味が見失われる(とっさの時に常に武器を使えるわけではないので徒手の攻防を忘れてはならない)」「技に頼りすぎると珍しい技を覚えるだけで終わってしまう(使えない技のコレクターになる)」「形を限定しすぎると個人に合った動きができなくなる(形を個人に最適化することとができなくなる)」といった弊害を考えることができる。


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