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道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(5)

  道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(5) 語学の例文でいうなら中国武術や古武道の形が「わたしは京都に行きます」であるなら、現代の武道の「形」とされるのは「行きます」だけと言えよう。そうなれば当然「行きます」はそのままでいろいろな場面で使うことができるわけであるが、ただそれだけを覚えても文法や表現技法の習得に発展することはない。実戦はひじょうに複雑で、どこまで相手を制するべきなのかも考えなくてはならない。一方、試合ではルールがあるのでその中で戦えば良いのであるから、複雑な攻防の技術を習得する必要はなく、ポイントとを得られる「最後の動き」だけを主として取得していれば良いのである。また現代武道の「形」にしても、それすら皆が同じ「形」を使ってはいない。一本背負いは背負って相手を投げなければならないのであるが、人によっては膝を落として巻き込むように投げている場合もある。この方が背負うより確実に相手を投げて背中を床につけてポイントを得ることができるからである。つまり現代武道のような本来の形の一部を切り取った「形」でさえそれがそのままに使われていることは希れなのである。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(1)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(1) 植芝盛平は大本教に居た頃に「黄金体化」とされる神秘体験をした。合気会ではそれを合気道の生まれた時とする。この神秘体験は天地から黄金の息吹が吹き出して盛平は、それに包まれ自身が黄金体と化し¥たという。そしてその時に「我即宇宙」「万有愛護」を感得した。カッパ・ブックスの『合気道入門』(植芝吉祥丸)では、この「体験」をウパニシャッドの悟り体験を引いて解説している。本来、仏像は金色であり、それはまさに「黄金体化」をしているわけで、インドでは黄金の光に包まれるのは悟りを開いた時であるとする考え方があったようである。つまり、この盛平の体験も言うならば「究極の悟り体験」であったわけである。空海は求聞持法を修して明星と一体化する神秘体験をしたが、これは釈迦が悟りを開いたのと同じ体験であった。これにより空海は密教を信ずるようになった。また道元は「心身脱落」の神秘体験をして、これは釈迦の体験とは違うが、道元はこれこそが真の悟り体験であると、ひたすら「正法眼蔵」を書き綴って證明しようとした。「身心脱落」の体験が悟り体験であると考えるのは道元以外には無いので、道元はいろいろな解釈の可能性を模索したわけで、そのために「正法眼蔵」は難解となった。本来は通らない道理を通そうとするから難しくなるのは当然であると言えよう。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー3) 普通の人(中士)は「道」を知ってもどうしようとも思わない。 優れた人に次ぐのが普通の人(中士)である。そうした人は「道」を求める気持ちはあるのであるが、それがあやふやなのである。「道」の実践も長続きすることがない。例えばちょっとした「道」に関することを知って、心が安らかになったりするが、すぐに目先のことに心が乱れてしまう。つまり「天の理」も「人の欲」も、雑然として混在している状態なのである。そうであるから「天の理」を見ても信じ切ることはできないでいる。そうであるから「普通の人(中士)は『道』を知ってもどうしようとも思わない」わけである。 〈奥義伝開〉通常の常識とされる認識の他により深い物事の見方のあることを理解はするもののその真価を分かるところまでは行っていない、静坐の価値を知っても、すぐに止めてしまう、こういった人は多く居るものである。またよく見られるのは静坐・内省のような精神的な修行に「物足りなさ」を感じて肉体的な修行へと迷い込む人である。日々十分、二十分の静坐では「物足りない」と思って、冷たい水を浴びたり、結跏趺坐で長い時間足の痛みに耐えたりしようとする。しかし、肉体的な修行と精神的な修行とは全く関係がない。精神的な深みに入ろうとするのであれば、精神(心)を開くしかない。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー2) 優れた人(上士)は道を知ったならば、熱心にそれを実践しようとする。 「道」に接した人には三つのタイプがあるとされる。優れた人(上士)の見識は群を抜いている。考えは深く、もし「道」を知ることができたならば、必ずそれを熱心に行おうと思い、決して怠ることはない。それは山を登る者が必ず山頂を目指すようなものである。水のあるところを渡るのに必ず深いところを避けるようなものである。「道」を知ったならば、更に深いところに至ろうとして、その歩みを止めることはない。つまり優れた人は、ひたすら熱心に「道」を究め続けるのである。 〈奥義伝開〉通常の表面的な認識より更に深い認識のあることが理解できたならば、それを得ようとするのが、優れた人であるとしている。これはシュタイナーが言う「超感覚的認識」なのであるが、簡単に言えば「深い洞察」である。実際にそれを得るためには、そのように脳の働きを鍛えなければならない。具体的な方法はシュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に詳しい。これは瞑想法のエッセンスを明かした最も優れた文献であるが若干、薔薇十字の系統に傾いてはいる。重要なことは日々内省の時間を持つことである。そうすることで物事を深く考える訓練をすれば、より深い認識に達することが可能となる。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー1) 「道」は知るべきものであり、人の心の本質である「性」は欠くことのできないものである。もし「性」というものがなければ、目は正しく物を見ることはできないし、耳は正しく音を聞くことができない。鼻は正しく匂いを嗅ぐことができなし、口は正しく言葉を発することができない。もし「道」を知ることがなければ、身を修することはできないし、徳を立てることもできはしない。家は整わないし、国も治まることがない。そうであるから「道」は知られるべきなのである。ただ「道」を知ると言っても、そこには浅い深いがある。また「性」にも、それを賢明に働かせている人も居るし、愚鈍に働かせている人も居て同じではない。「道」を聞いて深く考え、努めて実践をする。そうして多くの場面で活かす。こうした人は深く「道」を理解して知恵のある人物(上士)とすることができる。「道」を聞いても専心することができない、心を決めかねているような人は普通の人物ということになる。これは、いまだ悟りを得ない人である。そして「道」をあまり信ずることなく、物事を深く考えないような人は愚かな人(下士)ということになる。また、これ以外にも二種類がある。それは感覚器官を通して認識を得る人と、感覚器官を通すことなくして認識を得る人とである。感覚器官には外には耳などがあり、それで得た情報を「性」を通して認識する。外的な感覚器官を通してのみ認識を得て、内的な感覚器官を用いることがない。これは「外的な認識」しか得ることはできない。一方では、外的な認識器官を通すことなく、内的な認識器官を用いるだけで得られる認識もある。それは外的な事象の認識ではない。妄念による誤った認識が生まれることがなければ、自分の「性」の声だけを聞くことができる。つまり心の声を聞くわけである。それは耳を用いることなく、よく声なき声を聞くわけである。そこには耳から誤った情報が入ることはない。つまり実際には聞こえないものを聞いているのである。そうしうたものをよく聞くことができても、多くの人はそれを聞くことができない。そうであるからこうしたことを「妙聞」と称する。こうした「妙聞」によってこそ「道」を聞くことができるのである。今「道」を聞こうとする人は、こうした「妙聞」のあることを知っているであろうか。「道」は兆しをして知るしかないが、それは一定の...

道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(4)

  道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(4) また「現代武道の形は使える」ということについては例えば柔道の「一本背負い」はそのまま試合に使えていると思われていることがある。ボクシングのストレートはそのまま試合に使えていると言う人も居る。しかし、これらは形ではない。形の一部にしか過ぎない。よく柔道では「崩し、作り、掛け」がないといけないと指導される(一般には「崩し、作り」で「作り」とされる)。つまり形とされるものにはこれらが全て含まれていなければならないわけで「一本背負い」は「掛け」だけということになり、形の一部であるに過ぎない。そうであるなら太極拳の進歩搬ラン捶の最後の「捶(右拳による突き)」は太極拳家が攻防をすれば容易に見ることができる。有名は呉公儀と陳克夫の試合の冒頭でも呉の進歩搬ラン捶が、陳の鼻に当たっているが、太極拳をよく知らない人は早い動きで、やや変化した動きの進歩搬ラン捶を進歩搬ラン捶と読み取ることはできないかもしれないが、それが右突きであることは分かるであろう。そうであるならこれを現代武道の「形」として解釈すれば、少なくとも太極拳の右突きの形(捶)は使えているということになる。勿論、他の場面でも右突きは何度も出て来ている。

道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(3)

  道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(3) かつて王陽明は「竹をひたすら見つめても何も得るものがなかった」とする体験を語っている。それは竹から情報を得るための準備が出来ていなかったからである。情報というものは漫然としていて得られるものではない。それには情報を得るための手段や方法がなければならない。もし王陽明が絵画での竹の表現技術を求めたいと思っていたら、絵画の技術という方法を通して得るものが多くあったであろう。また、もし植物学の知識があって顕微鏡などの手段が得られれば、これもいろいろな発見をし得たかもしれない。このように人が知識を効率よく摂取しようとするなら、それなりの手段や方法がなければならないのである。語学でも漫然と外国語を聞いていただけではそれを効率よく身につけることはできない。形の観点から言えば「例文」などを使わなければ文法、語彙などを効率的に学ぶことはできないわけである。例文で「わたしは京都に行きます」「昨日、わたしは夕食を食べました」とあった場合、「こんな文章をそのまま使うことはない」とこうした学習の方法に疑問を持つ人はいないことと思われる。それと同じで、どのような場合でも「わたしは京都に行きます」ということを常に使うことはないわけで「わたし」が「彼」となったり、行き先も「京都」ではなく「大阪」となったりすることは当前のことなのである。そのように武術の形もそのまま使うのではなく、それを状況に応じて微調整をして使うのは当然のことなのである。