宋常星『太上道徳経講義』(41ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(41ー1)
「道」は知るべきものであり、人の心の本質である「性」は欠くことのできないものである。もし「性」というものがなければ、目は正しく物を見ることはできないし、耳は正しく音を聞くことができない。鼻は正しく匂いを嗅ぐことができなし、口は正しく言葉を発することができない。もし「道」を知ることがなければ、身を修することはできないし、徳を立てることもできはしない。家は整わないし、国も治まることがない。そうであるから「道」は知られるべきなのである。ただ「道」を知ると言っても、そこには浅い深いがある。また「性」にも、それを賢明に働かせている人も居るし、愚鈍に働かせている人も居て同じではない。「道」を聞いて深く考え、努めて実践をする。そうして多くの場面で活かす。こうした人は深く「道」を理解して知恵のある人物(上士)とすることができる。「道」を聞いても専心することができない、心を決めかねているような人は普通の人物ということになる。これは、いまだ悟りを得ない人である。そして「道」をあまり信ずることなく、物事を深く考えないような人は愚かな人(下士)ということになる。また、これ以外にも二種類がある。それは感覚器官を通して認識を得る人と、感覚器官を通すことなくして認識を得る人とである。感覚器官には外には耳などがあり、それで得た情報を「性」を通して認識する。外的な感覚器官を通してのみ認識を得て、内的な感覚器官を用いることがない。これは「外的な認識」しか得ることはできない。一方では、外的な認識器官を通すことなく、内的な認識器官を用いるだけで得られる認識もある。それは外的な事象の認識ではない。妄念による誤った認識が生まれることがなければ、自分の「性」の声だけを聞くことができる。つまり心の声を聞くわけである。それは耳を用いることなく、よく声なき声を聞くわけである。そこには耳から誤った情報が入ることはない。つまり実際には聞こえないものを聞いているのである。そうしうたものをよく聞くことができても、多くの人はそれを聞くことができない。そうであるからこうしたことを「妙聞」と称する。こうした「妙聞」によってこそ「道」を聞くことができるのである。今「道」を聞こうとする人は、こうした「妙聞」のあることを知っているであろうか。「道」は兆しをして知るしかないが、それは一定の形を持つものではない。大いなる道はそうしてあらゆる物の中に隠れている。大いなる道は妄想によることのない実理である。これは善によらないで知ることはできない。これは自分で得なければ得られるものではない。この章を読む優れた人はこうしたことをよく知らなければならない。この章では「道」が信ずべきものであることが述べられている。大いなる道は深い教えである。ただ信ずることで、それに入ることができるのであり、信ずることがなければ本当の道を得ることはできないのである。
〈奥義伝開〉ここでは「道」つまり物事の真の道理は表面的なことだけを見ていたのでは理解できるものではないことが述べられている。そこには深い洞察がなされなければならない。さらにこのことを当時の「格言」を十三も並べて説明する。宋常星は感覚器官によらない認識、つまり超感覚的な認識を通してのみ「道」を悟ることができるとするが、これは「深い洞察」ということに他ならない。超感覚的な認識というと霊光やビジョンを幻視するようなことと誤解されることが多い。しかし実際は単に「深い洞察」を繰り返し、粘り強く行うことに過ぎない。それを行うのが日々の静坐であるが、これは一日数分から数十分行うと良い。重要なことは深い洞察を行おうとすることで、その訓練を日々行うことである。また肉体的な苦痛に耐えることと深い洞察を得ることとは全く関係がない。真冬に冷水を浴びたり、足の痛いのを我慢して瞑想をしても、それは認識を深めることには寄与しない。