道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(3)
道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(3)
かつて王陽明は「竹をひたすら見つめても何も得るものがなかった」とする体験を語っている。それは竹から情報を得るための準備が出来ていなかったからである。情報というものは漫然としていて得られるものではない。それには情報を得るための手段や方法がなければならない。もし王陽明が絵画での竹の表現技術を求めたいと思っていたら、絵画の技術という方法を通して得るものが多くあったであろう。また、もし植物学の知識があって顕微鏡などの手段が得られれば、これもいろいろな発見をし得たかもしれない。このように人が知識を効率よく摂取しようとするなら、それなりの手段や方法がなければならないのである。語学でも漫然と外国語を聞いていただけではそれを効率よく身につけることはできない。形の観点から言えば「例文」などを使わなければ文法、語彙などを効率的に学ぶことはできないわけである。例文で「わたしは京都に行きます」「昨日、わたしは夕食を食べました」とあった場合、「こんな文章をそのまま使うことはない」とこうした学習の方法に疑問を持つ人はいないことと思われる。それと同じで、どのような場合でも「わたしは京都に行きます」ということを常に使うことはないわけで「わたし」が「彼」となったり、行き先も「京都」ではなく「大阪」となったりすることは当前のことなのである。そのように武術の形もそのまま使うのではなく、それを状況に応じて微調整をして使うのは当然のことなのである。