宋常星『太上道徳経講義』(41ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(41ー3)

普通の人(中士)は「道」を知ってもどうしようとも思わない。

優れた人に次ぐのが普通の人(中士)である。そうした人は「道」を求める気持ちはあるのであるが、それがあやふやなのである。「道」の実践も長続きすることがない。例えばちょっとした「道」に関することを知って、心が安らかになったりするが、すぐに目先のことに心が乱れてしまう。つまり「天の理」も「人の欲」も、雑然として混在している状態なのである。そうであるから「天の理」を見ても信じ切ることはできないでいる。そうであるから「普通の人(中士)は『道』を知ってもどうしようとも思わない」わけである。


〈奥義伝開〉通常の常識とされる認識の他により深い物事の見方のあることを理解はするもののその真価を分かるところまでは行っていない、静坐の価値を知っても、すぐに止めてしまう、こういった人は多く居るものである。またよく見られるのは静坐・内省のような精神的な修行に「物足りなさ」を感じて肉体的な修行へと迷い込む人である。日々十分、二十分の静坐では「物足りない」と思って、冷たい水を浴びたり、結跏趺坐で長い時間足の痛みに耐えたりしようとする。しかし、肉体的な修行と精神的な修行とは全く関係がない。精神的な深みに入ろうとするのであれば、精神(心)を開くしかない。


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