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道徳武芸研究 松竹梅の剣と正勝棒術(8)

  道徳武芸研究 松竹梅の剣と正勝棒術(8) それでは呼吸力は具体的にはどのようなシステムによって構成されているのであろうか。それが松竹梅の剣と正勝棒術なのである。剣の動きは上下の中心軸を開くものであり、これにより左右の転身による入身が容易となる。一方、正勝棒術は螺旋の動きで主として変化を促すのに効果が認められ、これは入身から転換へと攻防を導くものである。またこうした動きの組み合わせは形意拳と八卦掌においても同様に見ることができる。ある意味で形意拳と八卦掌がひとつのものと見なされるようになるのは必然の結果でもあったといわねばなるまい。また近世までの日本では、今では古武道といえば剣術がもっぱら知られているが、それに並んで宝蔵院の槍が広く行われていた。他にも佐分利流なども宝蔵院に近い技術を有しているが、これらにおいては「切る」ということが、かなり重視されている。中国で槍は「突き」や「打つ」が主たる用法とされ、槍で「切る」という発想はない。槍に似た武器で「切る」ことを重視するのは戈(か)であろう。戈は鉾の一種で横にT字の刃が付いている。つまり「切る」槍とは矛の系譜を引くものなのである。こうした矛と剣の組み合わせは弥生時代に見られるもので、この組み合わせが後世にまで受け継がれ、合気道において正勝棒術と松竹梅の剣として結実されたのである。

第七十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第七十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では生死の道について論じており、そのおおよそから細部にまで及んでいる。つまり身を亡くすところにまで教えが至っているわけである。「上」が多く取れば、「下」が餓えるのは当然である。「上」が余りに多くの政策を実施しようとすれば、「下」はかえっ秩序を失うことになる。こうしたことは必然ということができよう。民が自らを愛すること過度になれば、まさに養生を熱心に行うようになり、自分の体を過度に重視してしまう。一方で自分の体への執着が過度でなければ、死へのとらわれも軽くすることができよう。聖人にあっては、ただあえてことを為すことがない。つまり「吾に身無ければ、吾に何の患うるところあらん」とされるところのものである。これはどうしたことは自分が生を受けたことをよく理解していることにならないであろうか。 (ここでは「民の死を軽んじる。その生生の厚きをもってなり」の解釈に注意しなければならない。「死を軽んじる」ということを簡単に死ぬこと、と理解したのでは意味がない。この後の「生を貴ぶに賢たり」と重ねて理解されるべきである。人が亡くなるのは当然のことであるからそれにとらわれるのは好ましいことではないわでけで、こうした「自然」のままの考え方ができるのが「賢」ということになる。老子はあくまで合理的な考えを重視しており、合理性の中で余計なことをするべきではないと考える。「死」について心配しても仕方がないので、そうしたことの不合理性をここでも説いている)

第七十五章【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第七十五章【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 民の餓える。その上、税を食(は)むの多きをもってなり。これをもって餓える。 (民が餓えるのは、「上」の税を取ることが多いからである。そうであるから餓えるのである) 民を搾取することが重ければ、民は貧しくなってしまう。 民の治め難きは、その上、これ為すこと有るをもってなり。これをもって治め難し。 (民の統治し難いのは、「上」が余計なことまでしてしまうからである。そうなると統治が難しくなる) 「為すこと有る」とは、知術を用いることである。それが過度になれば、かえってうまく政策をして民を治めることができなくなる。 民の死を軽んじる。その生生の厚きをもってなり。 (民が死を軽んじるのは、ただ生きることを重視して死について考えないからである) 自分を大切に思うことが過度であることを「厚き」としている。自身の身を軽んずれば、死んでしまうことにもなりかねない。これは死を軽んじていることになる。 それただ生をもって為すこと無きは、これ生を貴ぶに賢たり。 (ただ無為自然に生きる。そうした生き方は、死ぬことを考えても死を免れることができるわけではないという自然の道理を知っていて、賢く生きることを大切にしていることになる) 「もって為すを生ずること無き」とは、体のことで体が存していることを言っている。「生を貴ぶ」とは、その生に自信を持つことである。

道徳武芸研究 松竹梅の剣と正勝棒術(7)

  道徳武芸研究 松竹梅の剣と正勝棒術(7) まさに呼吸力は合気以上に優れた概念で、日本武道史つまり「柔(やわら)」の歴史を総括するといっても良い程のものであったのであるが、これまで合気道において呼吸力がどのように位置付けられるかの検討が進められることはなかった。「合気」道ではあるが呼吸投げはあっても、合気を冠する技が無いことに修行者は疑問を抱かなかったのであろうか。また、一部に「合気投げ」がいわれることもあるが、実際は呼吸投げと大差ないものであるに過ぎない。既に触れたように呼吸力は合気を含んだ概念で、引力の鍛錬としての「引く息」が合気となり、「吐く息」では力(呼吸力)が発っせられることになる。これは中国武術でいえば発勁ということになる。一部に日本の武術は「合気」で、中国は「発勁」に特色を有するとする理解も見られたが、太極拳でも「合えば即ち出る」(打手歌)とあるように「合」はまさに合気であり、具体的には「化」勁などが合気と等しい技法として存している。またここでの「出る」が、つまり「発」勁であることは言うまでもなかろう。中国武術では相手の力を受けて攻防を転換させる働きを「化」勁とし、その上で相手に力を及ぼすのが「発」勁とされるが、「合」と「発」の二つをむすび付ける概念はない。それを植芝盛平は呼吸力としたわけである。

第七十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 

第七十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】  この章では、刑をして民を守るということが述べられている。こうしたやり方は安らかさからは程遠いものである。刑を用いるのは、究極的には刑が民をして死を慴れさせることによっているのに過ぎない。しかし、民は本来は死を慴れることのないものである。どうして死を畏れることがあるであろうか。もし民を天の道の中に安んずるなら、生を楽しみ、死を畏れるであろう。しかし、そうではない変わった者も居るであろうから、そうした者は殺せば良い。このような者に、どうしてあえて死の恐怖をして服従させる必要があるであろうか。こうした者は自分で死刑への道を選び取っているのである。こうした者を殺すのは天に代わって殺すわけであるから、私意によるものではない。つまり、あえて変わり者を殺そうとするのではない。天は何れはそうした人物を殺すのであるから、それに代わって殺すに過ぎないのである。これは大師匠に代わって弟子が木を切るようなものである。ただし無闇のに斧を用いたならば、どうして自分の手を傷つけないでいられようか。 (ここでは人は本来、死は自然なことの一部であるからそれを畏れたりはしていなかったことが前提となっている。しかし現在の人は死を慴れる。それは天の道を外れてしまっているからに他ならない。もし人々に死を畏れさせるようなことを言いう者が貴ばれるのであれば、自分は天に代わってそうした人物を殺すであろうと老子は言う。これは地獄や幽霊などを説く「宗教者」のことでもあろうか。しかし実際に殺してしまうと自分にも不幸が訪れるとも述べている。つまり天に代わって人が殺人を行ってはならないことも老子は教えている)  

第七十四章【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第七十四章【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 民は常に死を畏れず。いかに死をもってこれを慴れるや。 (民は本来は死を畏れてはいないものである。しかし、どうして今、多くの民は死を慴れるのか。) 普通の人でも亡くなる時には、死を畏れることはない。 もし民をして常に死を畏れさしめるを奇(すぐる)ると為す者は、 (もし民に死を畏れさせるのをおかしなことをする者が居れば) 民は皆、法を知っているが、その意表を突く人が時に出るものである。 吾、執るを得てこれを殺す。いずくんぞあえてせんや。 (自分はこれを捕まえて殺すであろう。どうしてあえて殺してしまうのか) 「いずくんぞあえてせんや」とは、殺あれても、けっして服従することがないということである。 常に殺すを司る者有れば殺す。 (それは常に殺すことを司る者が自然には居るからである。そうであるからあらゆる生き物は死んでしまう) 「殺すを司る」のは天である。 しかして殺すを司る者に代わりて殺す。 (つまりそうした自然の殺す働きに代わって自分は人を殺すのである) 殺す必要がないのに殺すのは、つまり「殺すを司る」ところの天に代わって殺すのである。 これは大いなる匠に代わりて断つ。 (これは偉大な師匠に代わって木を切るようなものである) 大いなる匠に代わって木を切ることに例えているわけである。   それ大いなる匠に代わりて断てば、その手を傷つけざること希れなり。 (そして偉大な師匠に代わって木を切ったりたならば、自分の手を傷つけることになろう。つまり勝手に自然の生き物を殺す働きに代わって人を殺したりしたら自分には不幸が訪れることになるのである)

道徳武芸研究 松竹梅の剣と正勝棒術(6)

  道徳武芸研究 松竹梅の剣と正勝棒術(6) 「須佐之男の命」は「すさ」の男の命(みこと=かみ)という意味である。「すさ」とは荒(すさ)ぶるという意味で、須佐之男の命は「荒ぶ」働きを高天原にもたらした神であった。「すさ」は「su sa」であるから「う」と「あ」の言霊が認められる。つまり須佐之男の命が高天原に赴くことで、高天原に浄化の働きである「う」の言霊が働くようになったのである。須佐之男の命は高天原では農業施設や機織りの施設を壊したとされる。こうした荒ぶる様子が実は浄化の働きであったのであり、これを経て高天原は岩戸開きを迎えて新たな秩序がもたらされることになる。ちなみに天照大神は「a,ma,te,ra,su」で「あ」と「え」と「う」の言霊が存しているのであるから「う」の浄化の働きも含まれているのであるが、それが、須佐之男の命が高天原で荒(すさ)ぶるまでは発動されることがなかった。ために岩戸に隠れることになったわけである。この時、高天原は暗く、悪しき働きが蠢き出したとされる。しかし天照大神が岩戸から出ると世の中は再び光に満ちた秩序を取り戻す。つまり浄化が働くようになったわけである。須佐之男の命のような浄化の働きを「武=神武」という。これが合気道の働き、天の叢雲の剣の働きとなるわけである。