第七十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第七十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

この章では生死の道について論じており、そのおおよそから細部にまで及んでいる。つまり身を亡くすところにまで教えが至っているわけである。「上」が多く取れば、「下」が餓えるのは当然である。「上」が余りに多くの政策を実施しようとすれば、「下」はかえっ秩序を失うことになる。こうしたことは必然ということができよう。民が自らを愛すること過度になれば、まさに養生を熱心に行うようになり、自分の体を過度に重視してしまう。一方で自分の体への執着が過度でなければ、死へのとらわれも軽くすることができよう。聖人にあっては、ただあえてことを為すことがない。つまり「吾に身無ければ、吾に何の患うるところあらん」とされるところのものである。これはどうしたことは自分が生を受けたことをよく理解していることにならないであろうか。


(ここでは「民の死を軽んじる。その生生の厚きをもってなり」の解釈に注意しなければならない。「死を軽んじる」ということを簡単に死ぬこと、と理解したのでは意味がない。この後の「生を貴ぶに賢たり」と重ねて理解されるべきである。人が亡くなるのは当然のことであるからそれにとらわれるのは好ましいことではないわでけで、こうした「自然」のままの考え方ができるのが「賢」ということになる。老子はあくまで合理的な考えを重視しており、合理性の中で余計なことをするべきではないと考える。「死」について心配しても仕方がないので、そうしたことの不合理性をここでも説いている)


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)